店主のひとり言

店主(トシ丸)の身の回りの出来事や、日々のつぶやき・愚痴の数々です。暇な時にでもお読み下さいませ。

年寄りの冷や水




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 でっせ。(平成18年9月26日更新)

    2,009年
蔵人のホームページ

   菅谷さん釈放と裁判員制度・・・6月7日

先日、1990年5月に栃木県足利市で女児が殺害され事件で無期懲役が確定し、千葉刑務所に服役していた菅家利和さん(62)が釈放されたが、これは逮捕のキメ手とされたDNAを再鑑定した結果、女児の肌着に残っていた体液の型と菅谷さんの型が一致せず、

「無罪を言い渡す明らかな証拠の発見があった。」

として刑の執行を停止した結果であるが、事件発生の翌91年12月に菅谷さんが逮捕、勾留されてから既に17年半の歳月が流れてしまっている。

菅谷さんは釈放後の記者会見で、

「間違ったでは済まない。警察や検察は絶対に許しません。ショックで亡くなった父とずっと苦しんできて2年前に亡くなった母のお墓に出向き絶対に謝ってもらいたい。」

と語っていたが、それに対し事件発生時捜査を陣頭指揮した元県警幹部(75)は、

「警察の捜査は適正で妥当だった。釈放されたから、冤罪(えんざい)であるというわけではない、と語気を強め、当時の捜査の正当性を改めて強調した。」

との事であるが、この事件では捜査・取り調べの段階で菅谷さんが犯行を自白したとされているが、まともに考えて見ても、単なる窃盗程度の犯罪ならともかく、正当な捜査や取り調べを受けただけで、やってもいない殺人という重大な犯罪を自白する人間がいるであろうか。

菅谷さん自身は、

「取調官から鑑定結果を突きつけられ、自白した。」

といい、一審公判の途中で「DNA型鑑定で虚偽の自白を迫られた」と否認に転じたが、一審も二審も最高裁も、DNA型鑑定と「自白」の方を信用して有罪とし、無期懲役の判決が確定した。

過去の冤罪事件でも、捜査・取り調べの段階で強制された自白が有罪の根拠になった事件が多い。

先月に一般の国民が裁判員として裁判に参加する制度が施行されたが、「DNA鑑定の一致」と「本人の自白」という両者が揃えば、素人からなる裁判員の中には、

「これは有罪に違いない。」

と思ってしまう人も多いのではないだろうか。(今回の事件ではプロの裁判官でさえ、判断を誤ったのであるから。)

そして、そうした判断の結果、冤罪によって長期間にわたり拘留されたり、場合によっては死刑判決を受ける人間が出てくる可能性がある。

菅谷さんの場合は判決が無期懲役であったために、今回「DNAの不一致」が証明され釈放に至ったわけであるが、’92年に福岡県飯塚市で起きた女児2人殺害事件では、死刑判決の確定した男性が昨年既に刑を執行されているが、その事件では今回の件によって不確実性が証明された当時の「DNA鑑定」が証拠となっている。

「自白」が果たして本人の意思によるものなのか、科学的な鑑定結果や証拠といわれているものが、本当に間違いのないものであるのかどうか、今回の事件は、こうしたプロの裁判官達でさえも判断に苦しむ問題を判断する裁判員の方々の責任の重大性を浮き彫りにした事件であるともいえよう。

   コマ劇場周辺の映画館街・・・5月31日

前回は昨年末に幕を閉じた「コマ劇場」のその後に関して少し書いてみたが、「コマ劇場」前の広場は現在は「シネシティ広場」と呼ばれてるが(嘗て噴水のあった頃は、「歌舞伎町ヤングスポット」という今聞くと恥ずかしいような名前であった。)、その「シネシティ広場」周辺の映画館街にある新宿ジョイシネマ3館(ジョイシネマ1・2・3)が、本日をもって閉館する事になった。

「シネシティ広場」にある新宿ジョイシネマ1・2の2館は、1958年12月にオープンした新宿地球会館内の「新宿地球座」、「新宿座」が前身で、近くのビルにあるジョイシネマ3の前身である「新宿名画座」は1956年にオープンし、60年代から70年代にかけてはピンク映画の常設館として隆盛を誇った劇場である。

昭和35年当時の
新宿ジョイシネマの前身の 「新宿劇場」
現在の新宿ジョイシネマ外観

1984年1月に「新宿座」は現在の新宿ジョイシネマ、「新宿地球座」は1983年に「歌舞伎町松竹」と館名を変更し、 「新宿名画座」はその後「新宿シネパトス」に変わり、1995年に現在の新宿ジョイシネマ3館の体制になったのである。

歌舞伎町では、昨年末の「コマ劇場」の閉鎖に伴い「新宿プラザ」、「新宿コマ東宝」の両映画館が閉館になり、先月の17日には「新宿トーア」が、そして今回ジョイシネマ3館の閉館で昨年末からの半年で14館中6館もの映画館が閉館することになったのである。

他にもまだ閉館を噂されている映画館もあり、歌舞伎町の映画館の地盤沈下は甚だしいものがあるのである。

歌舞伎町の映画館の閉館の背景には、2007年2月にオープンした「新宿バルト9」(9スクリーン)や、2008年7月にオープンした「新宿ピカデリー」(10スクリーン)などの都市型シネコンの誕生で観客を奪われた事もあるが、歌舞伎町がもはや「映画を観に行く街」のイメージではなくなってきている事も影響しているであろう。

今や歌舞伎町は、「コマ劇場」というシンボルを失い、さらに映画館街というイメージすらも失いつつあるのである。

このような歌舞伎町の地盤沈下に歯止めをかけようと、6月16日(火)から8月末まで、「歌舞伎町シアターパーク 2009」という催しが歌舞伎町2丁目にある「区立大久保公園」で開催される予定である。

新宿区のニュースリリース のページによると、

「『歌舞伎町シアターパーク』とは、シネシティ広場(旧コマ劇場前)とともに文化の発信地として注目されている、区立大久保公園(歌舞伎町2-43)のテント劇場のこと。2007年には『デージーが咲く街』、2008年には『ねこになった漱石』『吉本7キャンプシアター』と、歌舞伎町の夏の風物詩として定着しつつあるこの場所に、今年は7つの芸能団体が結集した。音楽劇に大衆演劇、お笑いに狂言まであるという、一大芸能フェスティバルを開催することになった。」

ということであり、期間中には吉本興業のイベントも予定されているが、「歌舞伎町シアターパーク2009」の内容に興味のある方は下記のホームページを御参照下さい。

 http://www.d-kabukicho.com/entertainment/event/2009.html

   その後のコマ劇場・・・5月24日

昨年末で閉館になったコマ劇場は、隣にある「東宝会館」と共に解体されその後に新たな建物が建つ予定であるが、その東宝会館ビルの6階で営業を続けていた「ビリヤード&ダーツ バグース新宿店」が26日の営業を持って閉店することになった。

この店はビルの1フロアーを占める大型の店舗であったが、この店の閉店により、「東宝会館」のビルに残って営業を続けているのは地下にある「ノグチ」という小さな理髪店だけになる。

一方のコマ劇場の建物の方であるが、こちらの方も殆どの店舗が撤退して、現在ではセントラルロードの突き当たりにある「コマのれん街」の入口にある「浜銀」という寿司屋が唯一営業を続けている。

こちらの方は東宝側との話し合いがこじれた末に、現在では訴訟沙汰になっているそうであるが、「ぐるなび」の浜銀のページには、

「コマ劇場は閉館になりましたが、当店は営業しております。」

と背景を知って読めば、些か挑戦的ともとれる文章が書かれている。

ところで、先日歌舞伎町で営業している各店舗に竹中工務店東京本店から「新宿コマ劇場・新宿東宝会館解体工事 工事説明資料」という10ページ余りの資料が配付されたが、それを読んでみても

「予定工期 解体着工後17ヶ月」

とあるだけで、一体いつになったら工事を始めるのかに関しては一切触れられていないのである。

それに現在に至っても、その後のコマ劇場の跡地利用に関しては一切白紙らしい。

これは白紙と言うよりも、東宝側も竹中工務店側も良いアイデアがなくて困っているというのが本当のところのようである。

いつ始まるのか分からない解体工事から解体完了までに1年半、そしてそれから新しい建物の建設には更に数年の歳月が必要であろう。

一体いつになったら歌舞伎町の新しいシンボルは出来上がるのであろうか?

というか、空き店舗が増え平日は深夜になると客引きの姿ばかりが目につく最近の歌舞伎町の様子を見ていると、果たしてそれまで歌舞伎町が生き延びていけるのかさえ少々不安になってくる次第である。

   藤原氏恐るべし・・・5月10日

3月の末から上野にある東京国立博物館で、興福寺創建1300年記念「国宝 阿修羅展」が開催されてるが、今回の見所は興福寺では通常壁面のガラスケースの中で展示されている阿修羅像が360度から見られる事であり、「蔵人」のお客さんの中でも、何人もの人が見物に出掛けその素晴らしさを伝えてくれているのだが、このところめっきり出不精になったワシは、残念ながら未だに見に行っていないのである。

この阿修羅像は、天平6年(734)に聖武天皇の妻である光明皇后が母橘三千代の1周忌供養の菩提を弔うために造像したとされているが、その光明皇后は民間出身の初の皇后であり、仏教に深く帰依して、貧しい人に施しをするための施設「悲田院」や医療施設である「施薬院」を設置して慈善を行ったとして有名な皇后である。

彼女の父親は持統天皇の元で権力を握っていた藤原不比等であるが、不比等の娘が民間人(皇族以外で)初の皇后になるには様々な問題があったようだが、それはまあ良いとしよう。

問題は、聖武天皇の母親である宮子が、母親こそ違え光明皇后と同じように藤原不比等の娘である事である。

即ち、聖武天皇は不比等からすると娘の宮子の子供という意味では孫であり、光明皇后の夫という意味では娘婿(義理の息子)ということになる。

要するに、不比等は天皇の外戚になるために自分の娘と孫とを結婚させたのである。

いかに異母兄弟(姉妹)の結婚が珍しくなかった当時とはいえ、普通の人間ならここまではやらないのではないだろうか。

聖武天皇と光明皇后の間には男の子が生まれず、娘である阿倍内親王が聖武天皇の後を次ぎ孝謙天皇として即位するのであるが、この孝謙天皇は不比等にとって曾孫であり同時に孫でもある。

男系で言えば孝謙天皇は天皇家の血をひくとはいえ、血の濃さでは圧倒的に藤原氏の血の方が濃いのである。

幸いにもというべきか、孝謙天皇は怪僧道鏡を寵愛したものの、結婚も出来ず子もなかった為に、皇統は天武系から天智系に戻るが、もし聖武天皇と光明皇后との間に男の子が生まていて、その子が天皇に即位し、以後彼の子孫が天皇家を継いで行ったとしたら、天皇家というのは藤原家の血を伝えるための存在のようなものであったであろう。

馬場 朗の「天皇と藤原氏」(三一書房)という本によると、

「藤原氏が初めて聖武天皇の外戚となって以降、昭和天皇に到るまでの80人の天皇のうち、藤原系(藤原氏から枝分かれした家系も含む)の母から生まれた天皇が60人以上を占めている(明治・大正・昭和天皇の母親達も全て藤原系である。)」

と言うことであるが、「藤原氏恐るべし!」である。

   憲法9条はもったいない?・・・5月6日

今年のゴールデンウイークも今日でいよいよ最後である。

8連休・12連休等の長い休みになった人々も多かったようであるが、「蔵人」の方は3日(日)〜6日(水)の4連休であった。

土曜日も営業している関係で、「蔵人」が連休になるのは年間でもあまりなく、まして4連休ともなると正月とゴールデンウイークと夏休みくらいである。

これまでは連休の度に旅行に出掛ける事が多かったが、今回の連休は珍しく旅行にも行かずに、その殆どを家で本を読んだりしながらダラダラと過ごしてしまった。

ところで、5月3日の憲法記念日には護憲派・改憲派がそれぞれに各地で集会や講演等を行なっていたが、このところ一時ほどの声高な改憲論は影を潜めているようである。

その理由のひとつに、憲法9条改正に踏み切らなくても、自衛隊の海外派兵が可能になってきたからだという点があると思える。

例えば、過去の特措法による自衛隊のインド洋、イラクへ派遣に続き、ソマリア沖の海賊対策のために現行法のままでの派遣に踏み切り、先日衆院を通過した海賊対処法案では、停船命令に応じない船舶への船体射撃が可能になるなど任務遂行のための武器使用基準までが盛り込まれた。

今回のソマリア沖への自衛隊派遣に関して、東ティモールやアフガニスタンで紛争処理を指揮した伊勢崎賢治氏(現東京外国語大学教授)は、

「憲法9条は日本人にはもったいない」

とコラムに書いている。(5月2日の朝日新聞でも彼の意見が紹介されていたが。)

http://www.magazine9.jp/other/isezaki/

その理由として氏は、

「海上自衛隊は、真摯な国会審議も経ないまま、ソマリア沖に出て行きました。そしてついに、『海賊対処法』が成立します。海は荒れているのです。 最低限必要であるはずの『事前の国会承認』もなし。武器使用基準を大幅に緩和。さらに、日本関連の艦船でなくとも警備できる、などなど、憲法上の規定を大きく逸脱しているとしか思えない法案です。 」

という理由と同時に、

「国連の平和維持活動(PKO)への参加もイラクへの陸上自衛隊の派遣も、日本政府は『国際貢献』や『イラクの復興支援』を掲げました。良しあしの議論はさておき一応は『世界益』です。しかし今回は首相の国会答弁をはじめ、もろに『国益』が出てきた。こんな状態は戦後初めてです。日本はついに、国益を掲げて自衛隊を海外に出すようになってしまいました。」

という理由を挙げている。

氏の怒りは、メディアや政治家の、

「日本の船を襲う海賊だから取り締まるのは当たり前。我が国の国益のために自衛隊が出ていくのは当然」

といった論調と、そういった流れに流されていくままの、

「9条護憲だけれど、今回のソマリア沖の海自の派遣には賛成」

的な人々にも向けられている。

確かに「国益」を全面に出されては反対しにくい点もあるだろうが、国益のぶつかり合いが国際紛争の原因であり、憲法9条では明確に、

「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

と謳っている。

しかし、先にも書いたように今回の海賊対処法案では、停船命令に応じない船舶への船体射撃が可能になるなど任務遂行のための武器使用基準までが盛り込まれている。

これが武力の行使でないのなら、一体なんであろう。

ここまで憲法9条の理念を踏みにじられ、それに対して反対の声を上げないのなら、確かに憲法9条はそういった日本人にはもったいないのかも知れない。

   あれから1年・・・4月26日

酔っぱらって公園で裸になり公然わいせつ罪で現行犯逮捕されたSMAPの草薙剛に対し、彼を地上デジタル放送の普及促進のメーンキャラクターに起用していた総務相の鳩山邦夫大臣が、

「最低の人間だ。絶対許さない。」

と発言したことから火がついた騒動で、しばらく炎上状態になっていた鳩山邦夫の公式ホームページの活動報告のページを今日チェックしてみると、ようやく見られるようになっていた。

書き込まれている膨大なコメントの殆どが鳩山邦夫の発言に対する非難で、中でも

「公園で裸になるのと、国際会議の席で酔っぱらったまま記者会見した中川昭一元財務大臣の行為とどっちが最低な行為か云々。」

というような内容のコメントが多い。

まあ、確かに明らかに酔っぱらった状態で記者会見の席に出るのは、少なくとも「大臣としては最低の行為」であると思うが、国会議員としては「最低の行為」ではないのだろうか?

何故なら、その件で中川昭一は大臣を辞めたが国会議員を辞職してはいないのだから、多分国会議員としては「最低の行為」には当たらないのであろう。

ところで24日は「蔵人」の長年のお客さんであったT君の一周忌であった。

T君のことは美和子さんも弟のように可愛がっていたが、T君は会社の同僚や後輩達にも大変好かれていた人物で、先週の末には会社の同僚や後輩達が何人も盛岡にある彼の墓参りに出掛けたそうである。

T君が1年前にクモ膜下出血で部屋で倒れているところを発見され、救急車で病院に運ばれ僅か2・3日後には帰らぬ人となってしまったのは、T君が最後に店に顔を出してから僅か10日ほど後の事である。

そして、それから既に1年が経ってしまったのである。

人の命の儚さと、時間の経過の早さを改めて実感しているワシである。

   明日は我が身の冤罪事件・・・4月19日

07年に公開された周防正行監督の「それでもボクはやってない」という痴漢冤罪事件をテーマにした映画があったが、先日、

「電車内で女子高校生に痴漢をしたとして強制わいせつ罪に問われた名倉正博・防衛医大教授(63)=休職中=の上告審判決で、最高裁第三小法廷(田原睦夫裁判長)は14日、懲役1年10カ月の実刑とした一、二審判決を破棄し、無罪を言い渡した。」

という事件があり、各新聞にも大きく取り上げられていた。

この事件は、名倉教授が、

「06年4月18日、通勤途中に小田急線成城学園前−下北沢駅間を走行中の準急内で、女性(当時17歳)の下着の中に左手を入れ下半身を触ったとして起訴された。」

事件で、名倉教授は捜査段階から無罪を主張したが、1、2審は

「スカートのすそに腕が入っており、ひじ、肩、顔と順番に見て、名倉さんに左手で触られていることが分かった」

とする女性の証言の信用性を認め有罪とした。

要するに、この事件には物的証拠や目撃証言などはなく、証拠は女子高校生の「被害を受けた」という供述だけであり、名倉教授は一貫して無罪を主張したが、一審・東京地裁、二審・東京高裁はいずれも女子高校生の供述の信用性を認めて有罪としたのである。

実際にあった事実や判決は別にして、この事件の場合考えられるケースは、

@名倉教授が女子高校生の言うように、実際に彼女に対して痴漢行為を働いた。

A女子高校生は痴漢行為の被害を受けたことは事実であるが、真犯人は名倉教授ではない。

B女子高校生の「被害を受けた」という供述自体が虚偽である。

@の場合は別にしてA・Bの場合、「物証や目撃者がいなく、被害者の供述が唯一の証拠」の場合では、冤罪によって痴漢行為の加害者とされた人間にとって、自らの無罪を証明するのは殆ど不可能なのではないだろうか。

実際に、今回最高裁では5人の裁判官が審理したが結果は3対2の小差だったが、ということは5人のうち2人は女生徒の供述は信用できると判断したのである。

もしそれが3人であれば、名倉教授の有罪が確定していたのである。

確かにワシの周りの女性達に聞いてみても、殆どの女性達が電車の中で痴漢行為の被害に遭ったことがあると言っているので、痴漢行為が横行していることは確かであろうし、その結果不快な思いをしたり、身心的に深いダメージを受ける女性達がいることも事実である。

しかし、そういった事実と「相手の供述」だけで、身に覚えのない犯罪の犯人扱いされて、30日間も拘置され、研究室や自宅に捜索が入った上に、1年以上も刑務所に入れられる事とは別の次元のことであろう。

また、名倉教授は現在「休職中」となっているが、おそらくその理由はこの事件であろうし、彼が事件発生以来のこの3年間の間に失ったものは多いであろう。

名倉教授は記者会見で、

「きちんとした初動捜査なり、証拠の検討がなされたのか。人の一生をどう考えているのか。」

と捜査・司法への怒りの言葉をぶつけていたが、ワシも同感である。

ワシは仕事がらラッシュの時間帯に電車に乗ることは殆どないが、普通のサラリーマン生活を送っている人間にとっては決して他人事ではない事件であろう。

   久し振りのひとり言・・・4月12日

少し体調を壊したりして「ひとり言」の更新をサボっているうちに、いつの間にか1ヶ月以上が経ってしまった。

その間に年度末や桜の季節は終わり、この4月から転勤等で新しい職場に移られた方々も多いことだろう。

3月は別れの季節であり、4月は出逢いの季節である。

ワシ達のような商売をしていると、自分は転勤することはないが、お客さんの方が転勤で東京を離れたりすることがよくある。

サラリーマンの人達がよく、昔の出来事を思い出す時に、

「あれは確か福岡にいた時だから、**年頃の事だ。」

と言う風にその頃働いていた場所で思い出したり、

「あれは上の娘が中学生の頃だったから**年頃のはずだ。」

と言う風に子供の年齢で思い出したりするのを目にすることが多いが、ワシ達の場合は職場も変らなければ子供もいないので、

「あの人がよく店に来ていたのはいつ頃のことだろう?」

と言うことを思い出そうとする場合に、その頃誰がアルバイトで働いていたかがひとつの目安になることがある。

例えば、若い頃に東京にいてその頃「蔵人」の常連客であった人が、出張などで東京に来て「蔵人」に顔を出してくれた際などに、

ワシ・・・「Kさんがよく来て下さっていた頃って、どんな娘がアルバイトしていました?」

K氏・・・「名前は忘れたけれど、確か芝居をやっている髪の長い娘が働いていました。」

ワシ・・・「うーん、歴代の蔵人娘の中で一番多いのが役者なんで、それだけでは・・・。」

K氏・・・「もう一人、ジャズダンスをやっている娘もいましたね。」

ワシ・・・「と言うことは、**ちゃんと**ちゃんの頃だから、199*頃かな。」

と言う風にして、その娘達がバイトしていた時代やその頃にあった出来事を思い出すのである。

今のアルバイト娘の中には蔵人歴10年を越える娘もいるが、そうなると彼女一人では時代を限定するのが難しく、他の娘達との組み合わせから何とか時代を限定するのである。

それにしても、「蔵人」の開店から30数年で、一体何人くらいのアルバイトの娘が働いてくれたのだろう?

ホームページの「ALBUM」のページの蔵人娘グラフィティーに載っているのは全体の2/3くらいだと思うのだが、短期間でやめた娘も結構いたので、今となってはワシにも正確なことは分からないのである。

   高熱と臨時休業・・・3月9日

先週の火曜日の夜、店の途中から寒気がして仕方がなかったのだが、何とか閉店時間まで頑張って家に帰って体温計で熱を測ってみると、何と「39度3分」であった。

何しろ、大人になってからこの何十年かの間、体温計が39度を超えたのを見たことがなかったので、さすがに食欲もなくその日はすぐに布団に横になったが、寒気は一向に収まらないし、

「ひょっとしたらインフルエンザかな? その場合は明日から店はどうしよう?」

と朦朧とした頭で色々考えているうちに朝になってしまった。

心配で眠れなかったのは美和子さんも同様だったようで、朝になると知り合いの医者のところに電話を掛けて、

「とりあえず連れて行くので、インフルエンザかどうか診て欲しい。」

と頼み込み、ワシをタクシーに押し込んで鷺宮にあるその医者の医院に向った。

検査の結果、幸いにもインフルエンザではなかったものの熱はそれほど下がっていなかったので、とりあえず点滴を打って貰った。

それで家に帰って眠れれば良かったのだが、その日の午後は東京医大に診察と検査の予約が入っていたのである。

予約や検査をキャンセルすると、再度予約取るのに時間がかかることもあり、タクシーで家に帰ったワシは点滴に時間がかかったこともあって、寝る時間もなしに今度は東京医大に向ったのである。

美和子さんも、さすがに熱でフラフラしているワシを一人で行かせるわけには行かないらしく、東京医大まで付いて来てくれた。

東京医大での診察と検査等全てが終わったのが、午後4時過ぎである。

さすがにワシは店に出るのは無理であったが、美和子さんは

「何とかマスターの代理を捜して、今日も店を開く。」

と言っていたが、彼女自体も昨夜から一睡もしていなかったので、その時点でワシから見ても疲れ切っているのがありありと分かるほどであった。

それで、何とか彼女を説得してその日(水曜日)は店を臨時休業にすることにした。

彼女が何とかして店を明けようとしたのには理由がある。

それは、一昨年夏のワシの父親の葬式の時を除けば、「蔵人」は開店以来一度も臨時休業をしたことがなかったのである。(もちろん正月休みや夏休みは取るが。)

しかし、ワシ達ももう若くないのである。

ここで美和子さんに無理をさせるよりは、せっかく来て下さったお客さんには迷惑を掛けることになるが、先のことを考えると、店を休む方が賢明な選択だと思ったのである。

翌日の木曜日は、ワシは大事を取ってもう一日店を休んだが、美和子さんの方は代理マスターを頼んで、店を営業した。

先ほど、「父親の葬式以外に臨時休業したことがない。」

と偉そうに言ったが、それは全て美和子さんの健康があっての事である。


ワシ自身はこれまでも入院等で店を休んだことが何度もあるのである。

何はともあれ、水曜日に店に来て下さったお客さんがおられましたら、以上のような理由だったので

「ごめんなさい」

です。

   中川前大臣の番記者問題のその後・・・3月1日

中川前財務・金融相のG7における「もうろう記者会見」に関して、前回有力政治家と番記者との関係に関して、

「特定の政治家と親しくなる事が記者の仕事のひとつと見なされているような部分があり、その結果としてスクープをものにすることがあるが、逆に癒着が見られる場合も多いのである。」

と言うような内容のことを書いて置いたが、会見前夜の飲み会や会見前の昼食時にも中川氏と同席した読売新聞の女性記者のプロフィールまでがネット上に晒されたりしたが、その女性記者のプロフィールがネット上に晒された2009年2月18日中に読売新聞のホームページから削除されてしまったのである。

なぜ削除したかについて読売新聞東京本社広報部では、

「同席したのが女性記者なのかどうかも含めて、取材の内容や過程については、従来よりお答えしていません」

とだけコメントしたそうであるが、この女性記者のプロフィール削除がかえって色々と憶測を生んでいるのである。

まあ、どのような憶測が飛び交っているのかはここでは書かないので、興味のある人はインターネットなどでご自分で調べて下さい。

いずれにしても、政治家と記者とが常習的に飲食、飲酒することを業界的に許してるマスコミの体質が問題なのであり、その結果、脇が甘い政治家には美人の女性記者を貼り付けるような事も行なわれているらしいが、

「中川氏の場合は、昨年9月の財務相就任以降、G7などの海外出張では同行の女性記者を集めて飲食を行うことが恒例化していた。」

そうである。

それにしても、政治家もひどいが日本のマスコミはそれに輪をかけてひどい部分があるのだが、「裸の王様」の悲しさで、未だにそれに気がつかずに相変わらず記者クラブ制や番記者制にしがみついているのが現状である。

今回読売新聞が行なった、一切の説明無しでの女性記者のプロフィール削除などは、他の会社が行なったらマスコミはこぞってその会社の対応を責めるであろう行為である。


この未曾有の経済危機に際して、無能で能天気な政治家と無責任なマスコミしかもてない哀れな国民はどう対処していったらいいのであろうか。

   中川前大臣問題と番記者・・・・2月22日

中川昭一・前財務・金融相のG7における「もうろう記者会見」問題は、今更ながらに日本の政治家の駄目さ加減を世界に向けて白日の下に晒す結果になったが、その問題に関して朝日新聞が20日の朝刊で、

「もうろう記者会見 何があった 中川氏ローマの2日間」

と言う特集記事を掲載していた。

その中で、「飲酒有無の質問はなし」との見出しで、「ローマの会見場の記者の多くは、飲酒を疑ったが、日本の新聞の15日付の朝刊の締切りが迫っており、質問はG7の内容確認に集中。中川氏の飲酒の有無への質問はなかった。」との説明が加えられていたが、記者が飲酒の有無を会見の際に確認しなかったのは、果たして締切り時間の問題だったのだろうか。

何故なら、上の記事に続けて、

「朝日新聞の記者は会見終了直後、事務方に『飲んでいたのか』と取材したところ・・・」

と言う箇所があるからである。

会見直後に事務方に確認するくらいなら、何故記者会見の時に中川氏に直接質問しなかったのであろうか?

この辺りにこそ、日本の新聞社が持っている弱点があるのである。

同じ朝日記事のインターネット版から記事の一部を引用すると、前日の夜は、

「財務省幹部と打ち合わせ後の午後10時40分ごろから、中川氏が記者4人を呼び、宿泊先のホテル内で翌日午前0時半ごろまで懇談。中川氏はジントニック3、4杯を飲んだ。中川氏と麻布中・高校の同級生でもある財務省の玉木林太郎国際局長も加わった。 」

19日の衆院予算委員会で、玉木局長は「私が部屋に入った時、4名の記者が大臣と懇談していた。男性2名、女性2名。記者に所属の公表について確認をお願いしているが、2名は公表を控えてほしい、と。1名からはまだ回答が届いてない。1名は読売新聞の記者」

また翌日は、

「昼食には、玉木局長ら職員3人と政務秘書官、通訳、旧知の知人に加え、前夜に懇談していた読売新聞の女性記者が同席。この場でも酒が出された。」

「読売新聞東京本社広報部は『記者は携帯電話で原稿の問い合わせに応じるなど数回にわたり席をはずし、中川氏が飲んだところは見ていない』と説明している。」

としているが、何故特定の記者だけが深夜まで大臣と酒を飲んだりしているのだろうか。

日本の新聞社の場合、番記者と呼ばれる有力政治家担当の政治部の記者は、特定の政治家と親しくなる事が記者の仕事のひとつと見なされているような部分があり、その結果としてスクープをものにすることがあるが、逆に癒着が見られる場合も多いのである。

上の読売新聞の広報部の説明などは、まさに中川氏をかばっているとしか思えない内容であるし、深夜の大臣との飲酒が取材活動であるというのなら、

「記者に所属の公表について確認をお願いしているが、2名は公表を控えてほしい、と。1名からはまだ回答が届いてない。」

と言うのは一体どういうわけであろうか?

事実を明らかにすることが使命であるジャーナリズムに属している人間が、自らのことに関しては、

「公表を控えて欲しい。」

と言うのは一体どういう神経なのであろうか?

そのような態度自体が、新聞(やテレビ)に対する読者の信頼性を損っていることに気がついていないのであろうか?

以上のような新聞社の体質から、記者達は取材対象の政治家から煙たがられることを恐れ、記者会見等では当たり障りのない内容の質問でお茶を濁すことが多いのである。

まあ読売新聞社の場合、会長である渡辺恒雄自身が、当時大物政治家であった大野伴睦の番記者になる事により、保守政界と強い繋がりを持つようになった事が今日の地位を築くきっかけとなったのであり、本来は権力の監視役としての存在である新聞社の会長でありながら、中曽根康弘をはじめとする有力政治家との親密度を自らアピールしているのだから、今更「何をか言わん。」であるが。

と言うことで、今回の中川氏の事件は同時に、図らずも日本の新聞社の問題点のひとつを浮かび上がらせることにもなったわけである。

   ブログ書込み者摘発事件・・・2月8日

先日の朝日新聞に、

「お笑いタレント、スマイリーキクチ(37)のブログに、本人が過去の殺人事件の犯人であるかのような中傷や脅迫文が数百件書き込まれる事件があり、警視庁中野署は5日までに、17〜45歳の男女計18人を名誉棄損の疑いで書類送検する方針を決めた。また、脅迫容疑で川崎市の会社員の女(29)を書類送検した。」

と言う記事が掲載されていて、続いて、

「ネット上で相次ぐ、こうした「炎上」と呼ばれる集団書き込みに対する一斉摘発は、全国初とみられる。 」

と書かれていたが、

今回の摘発に関して、中野署では同じようなネット上の中傷はたくさんあり、

「こういうことをすれば警察に摘発されるんだ」

と警告する目的もあるとしているが、これまでこのページでも、某有名巨大掲示板の例を上げたりして、掲示板やブログの世界で蔓延している、悪意を持った誹謗中傷や事実無根の無責任な書込みの原因のひとつに、「匿名で書込みが出来るので、誰が書いたか分からないだろうから、好き勝手なことを書いても責任を問われることはないだろう。」

と言う書き込む人間の心理の問題を取り上げたりしていたが、その際、

「こう言った悪意や無責任な書込みが蔓延すると、その取り締まりを口実に、本来自由な発言の場であったはずの掲示板やブログが、権力によって規制される方向につながる可能性がある。」

との危惧を示しておいたが、 そう考えているワシにしても、最近匿名性をカサに着てより過激化する掲示板やブログに対する度の過ぎた悪意の書込みなどを見ていると、今回の摘発は

「悪質で無責任な書込みに対して、警察がようやく動いたか。」

と言う感想を持ったほどである。

今回の事件の場合、名誉毀損は「親告罪」であるので、多分、本人からの被害届を受け取った警察からの要請に対してプロバイダが情報を開示したために書き込んだ人間の特定が出来たのであろうが、スマイリーキクチ氏に対しては某巨大掲示板でも以前から誹謗中傷が繰り返されてきたが、今回もこちらの方は相変わらずおとがめなしである。

それとは別に、インターネットには毎日大量に舞い込む大量のスパムメールや、掲示板やブログに対するスパム的な書込みや「ADULT SITE」系の宣伝の書込みの問題もある。

以前ホームページの掲示板に対する海外からの大量のスパム書込みが流行った際に、ワシの知り合いのホームページでも、その多くが掲示板を廃止したが、その中にあって「蔵人のホームページ」では、何とか掲示板の存続を計ってきたのだが、最近は「ADULT SITE」らしきサイトのアドレスを掲載した匿名の書込みが相次いできている。

今後もこのような書込みが続くようなら、「掲示板」の一時閉鎖も考えているところである。

それにしても、ノーベルが発明したダイナマイトが、工事現場で重宝されたのと同時に、兵器としても使用されたことや、原子力の利用方法などと同様、どのように有用で便利なものであっても、それがもたらす結果は、人間の使い方次第と言うことであろう。

   かんぽの宿売却と朝日新聞・・・2月1日

あっという間に1月が終わり、今日からはもう2月である。

正月からこの1ヶ月の間、経済に関しては暗い話ばかりが取りざたされているが、確かに店でお客さん達の話を聞いていても、景気のいい話は殆ど聞くことがない。

これからも3月末の決算期を前にして、経済に関しては毎日のように暗いニュースが新聞の紙面を飾ることになるのであろう。

ところでその新聞の話であるが、最近日本郵政の保養・宿泊施設「かんぽの宿」がオリックスに一括売却されることについて、鳩山邦夫総務相は「納得がいかない」と待ったをかけている事が話題になっているが、それに対して朝日新聞は1月18日に社説で、

「筋通らぬ総務相の横やり」と題し、

「オリックスは最高額で落札したばかりか雇用を守る姿勢が最も明確で、さしたる根拠も示さずに許認可権を振り回すのでは、不当な政治介入だと批判されても抗弁できまい」

と鳩山総務大臣を厳しく批判していた。

ところが、鳩山大臣の発言をきっかけに、国民の間からも

「2400億円もかけて購入・建設した施設をオリックスに109億円で一括売却するのはおかしいのではないか?」

と言う声が出始めた後の1月31日付の社説では、

「・・・以上の論議は入札が適切に行なわれたことが大前提である。談合のような不正や不適切な事務処理があったなら話は別だ。鳩山氏は昨日の国会答弁でそのような疑義を口にした。それなら問題点を具体的に示して欲しい。担当大臣なのだからただ『疑念あり』では済まない。」

と書きながらも、

「日本郵政にも注文がある。売却が問題視されてからも、入札についての情報をきちんと出さずに疑念を膨らませる結果となった。・・・この機会に、民間企業としての決意を新たにして欲しい。」

とも書いている。

ところが朝日の31日付の社説の前の1月20日に発売された「週間朝日」では既に、

「鳩山総務相もストップをかけた 日本郵政 オリックスとの不透明な関係」

というタイトルで、

「(オリックスへの売却は)鳩山邦夫総務相でなくとも、どこか違和感を覚えてしまう」

とし、その理由として、

「売却価格は109億円なのだが、売却に含まれるのは全国70ヵ所の「かんぽの宿」のほか、首都圏の社宅9施設が含まれていて、この社宅は同誌が資産価値を調べたところ47億円。こんな「オイシイ」物件が含まれていることを日本郵政は公表を避けていたのではないか、としている。」

また、「NTTやJTの民営化時に比べ資産売却の監視の基準が緩く、恣意的要素が入る可能性があったこと、さらに、オリックスと日本郵政はかねてから何らかの繋がりがあると噂されていて、08年9月には日本郵政の沖縄の土地をオリックスが購入している。」

ことも指摘している。

また、31日の朝日新聞の夕刊には、

「旧日本郵政公社が07年に一括売却し、東京の不動産会社が1万円で入手した鳥取県岩美町の旧「かんぽの宿 鳥取岩井」が、直後に6千万円で鳥取市内の医療法人が同町内に設立した社会福祉法人に転売されていたことがわかった。」

との記事が載っており、これだけでも多くの国民が今回の日本郵政のオリックスへの不動産の一括売却に納得出来ないと感じるに十分であろう。

今回の問題は、鳩山大臣自身が問題点を具体的に示すことも大事であるが、それ以上に問題なのは、これまで「かんぽの宿」の売却問題を自らが取材し、読者に情報を提供することもしないでおいて、社説で声高に「正論」と自らが思っておる事を述べるだけの大新聞の姿勢である。

もし、まともに前回の旧日本郵政公社の一括売却した不動産のその後を取材していたら、今になって急に07年に行なわれた転売の事を記事にする必要もなかったであろうし、今回の社説ももう少し違った書き方が出来たはずである。

若者の新聞離れを防ぐために、新聞各社は色々と手を打っているようであるが、あくまでジャーナリズムとしての使命と取材精神を忘れないで欲しいものである。

   石原都知事の歌舞伎町に関する発言・・・1月25日

東京都の公式ホームページのトップページに「知事の部屋」というコーナーがあり、その中の「知事記者会見」という文字をクリックすると石原知事の過去の記者会見の内容を見ることが出来る。

その中の今月16日(金)に行なわれた定例記者会見の部分を読むと、石原都知事と出席した記者の間で歌舞伎町に関するやりとりがあったことが分かる。

少し長くなるが、石原都知事の歌舞伎町に関する見方が良く出ていると思われるので、その部分を東京都のホームページから引用しておくと、

【記者】実はですね、23区の繁華街のことなんですが、やはり繁華街の活性化というのはオリンピックを前に控えまして大事なことではないかと思うんですが、その繁華街の1つに歌舞伎町があるわけなんですね。

で、今、歌舞伎町は、コマ劇場が閉鎖されまして、これから建築計画が5年にわたって作られるということになっているんですが、どうもそこの劇場街を目指している地元の考え方と、東宝が今、新しく建て直すんですが、東宝の考えている中身とがどうもなかなか一致しないわけなんですね。要は、やはり歌舞伎町という1つの特性のある繁華街のまちづくりに、やはり新しく作る建物というのは合致するような内容に、できれば用途規制みたいなものがですね、かけられないものだろうかというふうに考えるんですが、知事の所見をお願いいたします。

【知事】さあ、それはやっぱり私よりも新宿の区長と都市計画、都市整備局に聞いてくださいよ。私はそもそも基本的に言って、あの歌舞伎町、好きじゃないしね。あそこだけの街の態様ってのはね、何かやっぱりちょっと民度が低いような気がしますな。ネオンサインの色を1つ見てもね。日本じゃないような気がする。あれがこの東京にマッチしたものかどうかわからんね。

まあね、劇場がせっかく作り直される。劇場を中心にしてどういう文化性のある街ができるかということは、これからの問題でしょうけどね、私に聞かれてもわからんね、そんなことは。まずやっぱりあそこの住民が真剣になって考えることでね。あそこで幅をきかせている日本と違う国籍を持った連中の何か言い分もいろいろ「ニューズウィーク」(アメリカの週刊誌)なんかに出ているけども、ナンセンスだと思うね、私は。


と言う内容であるが、石原都知事が歌舞伎町が好きであろうがなかろうがそれは彼の勝手であるが、だからといって自らが音頭を取って、設立後僅か数年で1000億もの累積赤字を出すようないい加減な銀行を作ったり、中国人を中心とした外国人に対する差別発言を意図的に繰り返しながら、その一方でオリンピック誘致で更なる税金をばらまいているような人間に、歌舞伎町の民度云々とまで言われる筋合いはないであろう。(それも、雑談の中ではなく、正式の定例記者会見においてである。)

それに、歌舞伎町は今でも日本を代表する繁華街であって、歌舞伎町の街の態様が民度が低いのであれば、それは同時にその民度の低い街にネオンサインに惹かれてやってくる人々の民度も低いと言うことであろう。

言うまでもなく、歌舞伎町に来る人間の中で一番多いのは東京都民である。

そして、その中には先の選挙で石原知事に投票した人間も大勢いるであろう。

と言うことは、彼は自分に投票した人間に向って、

「民度が低い。」

と言っているようなものである。


さすがは民度の高い石原都知事殿である。

   新年の歌舞伎町・・・1月18日

現在、コマ劇場のシネシティ広場側には工事用の白いフェンスが張られ、そのフェンスにはペインティングが施されているが、コマ劇場隣の「東宝会館」の1階にあった「ロッテリア」も閉店し、こちらの方ビルの方も上部の階の一部を除いほとんどのテナントが出て行ってしまったようである。

正月気分も抜け始めた歌舞伎町では、金曜・土曜以外の深夜はコマ劇場周辺も人通りもまばらで、これで今年3月にも予定されているコマ劇場の取り壊し作業が始まった場合、土地の所有者である東宝は、

「工事期間中も周辺は絶対に明るくする。」

と言っているそうだが、幾らフェンスの周辺を明るくしても、よほど高いフェンスで囲わない限り、例えばセントラルロードを歩いて歌舞伎町に入ってきた場合、フェンスの内側に巨大な暗黒の空間が広がり、その向こうに中小のビルがひしめく歌舞伎町2丁目のネオンが目に入ってくるわけで、核となる建物を欠いた周辺の飲食店への影響は多大なものがあると予想される。

コマ劇場前の「シネシティ広場」は実は区の所有地であるが、今月末辺りからそこに年中無休で14時から22時までオープンのオープンカフェ風のクレープ店が開店するそうであるが、それは歌舞伎町に少しでも賑やかさを取り戻したいという区の姿勢の現われであろう。

また、昨今の景気の急激な悪化と共に、歌舞伎町にとって痛手なのは円高による外国人観光客の減少である。

中でもウォンの価値が一年前の半分になってしまった事が響いて、かつては目立っていた韓国人旅行者の姿がめっきり減ってしまったし、財布の紐も固くなってしまった。

相変わらず中国人の観光客のグループは歌舞伎町でもよく見かけるが、基本的に彼等は団体旅行なので、決まった店以外に立寄る事は殆どないようである。

奇しくも今年は、歌舞伎町という街の名前が命名されちょうど60年、いわば還暦の年であるが、歌舞伎町は「経済不況」、「コマ劇場の閉館」、「外国人観光客の減少」といったマイナス要素を抱え、厳しい状況の中で還暦の年を迎えたのである。

しかし、状況が厳しいのは何も歌舞伎町だけではなく、いわば日本中がそうなのである。

「蔵人」のお客さんの中にも、既にかなり厳しい状況に置かれている中小企業の経営者や自営業の人達もいるが、何とか頑張って危機を脱して欲しいと切に願っている次第である。

   映画「禅 ZEN」・・・1月12日

今日の夕方、新宿にある「角川シネマ新宿」に10日に公開されたばかりの映画「禅 ZEN」を観に行ってきた。

この映画の原作は、駒澤大学の総長でもある大谷哲夫氏の「永平の風」という道元の生涯を描いた本で、縁があって「蔵人」のお客さんであるM氏が映画化に取り組み完成させた映画である。

最初M氏から、

「道元の生涯を描いた映画を作ろうと思っている。」

との話を聞いた時ワシは、

「道元というのは、宗教家・思想家としては偉大な人物であるが、高貴な家柄に生まれ若くして中国に渡り、天童山で如浄から正式な印可受けて日本に曹洞宗をもたらした、いわばエリート僧で、民衆の間に入って布教したわけでもなく、同時代の親鸞や日蓮に比べエピソードにも乏しいので映画化は難しいのでは・・・。」

と答えておいたのであるが、その後M氏は原作の映画化に奔走し、色々な困難を乗り越え数年がかりでこのほどようやく公開にこぎ着けたのである。

その間M氏から色々と映画化の進行状態や、その都度その都度のトラブルや問題点を聞いたりしていたが(ここでその詳細を明かす事は出来ないが)、少なくともこの映画はM氏の信念と行動力と意志の強さがなければ決して完成に至らなかったであろう事は確かである。

この映画の主人公である道元を演じるのは、今回が映画主演が初めてというまだ20代の中村勘太郎であるが、この若さで押さえた演技でこれだけ堂々と道元を演じられるのは、さすがは勘三郎の息子である。

公開初日に店に顔を見せてくれたM氏の話では、

「初日は最初の回から満員だった。」

そうであるが、今日は3連休の最後の日であるにもかかわらず、上演開始時間の20分ほど前に劇場に行ったワシがエレベーターを降りると、既にロビーには上演を待つ人々の列が出来ていたし、上映時には劇場内もほぼ満席になり、観客の中には若い人々の姿も多かった。

道元という乱世の鎌倉時代を生きた一宗教家の映画がこれだけの観客を集めるのは、それだけ人々が今の時代に閉塞感を感じ、心の拠り所となるものを求めていると言うことであろうか?

ただし、この映画を観たからと言って、禅についてなにがしかのことが分かるかというと、この映画はそういう宗教的な教育映画ではないし、そもそも道元自身にとって禅というもの自体がそういうものではないのである。(道元の説く禅とは「只管打坐」、即ちただひたすら座ることでる。)

まあ、道元のように欲や煩悩を完全に捨て去るのは凡夫には難しいが、人間の欲望と煩悩にまみれた歌舞伎町という街で日々生活しているワシのような人間にも、何かと考えさせられる事の多い映画であった。

何はともあれ、M氏のこれまでの苦労を多少なりとも知っていて、本日この映画を見たワシとしては、一人でも多くの人がこの映画を観てくれることを願うのみである。

   ワシの年末年始・・・1月4日

年末編

例年なら年末は、12月29日まで店を営業し30日に大掃除をするのであるが、昨年は12月29日が月曜日であったために、28日の日曜日に一足早く大掃除をやった。

例年のごとく、アルバイトの娘達やお客の有志の方々と総勢9人で昼頃から大掃除を始めたが、人数が多かったことと、参加者の多くが何年も「蔵人」の大掃除に参加してくれているために手際よく進められたので、夕方の6時前には無事に大掃除は終了した。

その後は大掃除参加者達で西口の居酒屋での「お疲れさん会」+「忘年会」となった。

翌29日は平常通り店を営業し、30日は17時47分発の新幹線に乗るために17時半前に東京駅に着いた。

ところが、東海道新幹線の方に近づくに連れて異常に人の数が多くなって来たのである。

ワシも年末や夏休みに新幹線を利用するので少々の混雑には慣れているが、この日の様子は単なる混雑というような雰囲気ではなかった。

多くの人々が階段や通路に座り込んだまま、動こうとはしないのである。

慌てて新幹線の掲示板を見ると、

「15時55分頃に小田原駅構内で発生した事故により、現在運転を見合わせている。」

旨の表示があった。

と言うことは、その時点で既に1時間半ほど新幹線が動いていないことになる。

この時期にそれだけの時間新幹線が動いていないとなると、東京駅の東海道新幹線付近が異常に混雑するのは当たり前である。

ワシ達も通路に腰を下ろし、バッグから取り出した本を読み始めた。

しばらくすると、ようやく新幹線の運転が再開されたとのアナウンスがあったが、ワシ達の乗る予定の列車の発車はだいぶ先のようである。

結局ワシ達の乗った列車は、東京駅を約100分遅れで出発した。

列車が走り始めてホッとしたのも束の間、今度は名古屋から実家に向う近鉄の特急の最終の時間が気になりだした。

実家のある近鉄線の大和八木駅には、いつもは名古屋駅から難波行きの特急を使うのだが、その特急の最終は結構早かった記憶があったのである。

携帯で調べてみたところ、名古屋発21時30分が最終であることが分かった。

列車が今後順調に動くかどうかや名古屋駅での乗換時間などを考慮すると、微妙なところである。

もし、最終の難波行きの特急に間に合わない場合は、新幹線で京都まで行って、そこから大和八木に向うことになるが、一応その事も考慮に入れておくことにした。

幸いなことに、列車は21時10分過ぎには名古屋駅に到着。

乗換えやすいように前もって新幹線の中央付近の車両まで移動していたワシ達は、急ぎ足で近鉄線の乗り場に向った。

こうして、午後4時半頃に家を出たワシ達は、7時間ほどかかって午前零時前にようやく実家に辿り着いたのである。

昨日の疲れもあり、翌31日の大晦日は夕方近くまで寝て、ゆっくりと身体を休めて過ごしたのである。


新年編

1日の奈良は曇り空で風も冷たかったが、前の日も一日中家にいたので、ワシと美和子さんは昼食後に散歩がてら実家から徒歩で40〜50分のところにある香具山まで行ってみることにした。

天(あめ)の香具山とも呼ばれ、大和三山のひとつとして知られるこの山は、高さは僅か152mで、歩いて10数分で頂上に立つことが出来るのである。

山頂にある神社にお参りして、来た時とは反対側に下りはじめた。

この山は山頂付近は展望がきかないが、西側の中腹からは金剛〜生駒の山々が望めるのであるが、あいにくこの日は曇天で風も冷たく、おまけに途中で少し雨まで降ってきて、それらの山々を眺めてすがすがしい気持ちになるにはほど遠かったのである。

実家に帰る着くと、妹夫婦が子供達を連れて顔を出していた。

普段は一人暮らしの母親は、大勢人が来て賑やかになると嬉しそうである。

妹達が帰った後は、また母親と3人でのんびりと過ごした。

2日は東京に帰る日であったが、割と早めに目覚めたのと、新幹線が名古屋発9時30分頃であったので、美和子さんと、

「時間があるのでどこかへ出掛けよう。」

と言うことになり、持参した「時代別 奈良を歩く」というガイドブックを見たが、

「大体行ったことがあるところが多く、有名なところは込んでいるだろうから、どうせなら行ったことがないところに行こう。」

と言うことで、かつての大豪族巨勢氏ゆかりの巨勢道に行ってみることにした。

近鉄吉野線に乗り「御所駅」の手前の「葛駅」で下車。

この日も前日同様、曇天で風の冷たい日であった。

寒さに震えながらも、先ずは駅の近くの御霊神社と安楽寺を訪れる。

どちらもワシ達以外に人影はない、小さな神社と寺で時間を潰すようなところもないので、お参りを済ますと駅の方に戻り、曽我川を渡り直して正福寺に向う。

この寺は巨勢寺の礎石が使用されている寺であるが、ここも小さなお寺で、境内でじっとしていても仕方がないので、次の目的地である阿吽(あうん)寺に向う。

途中の道にもほとんど人影はなく、風も強くなってきて、この季節のこんな天気の日にこんな場所に来てしまった事を後悔し始める。(多分、暖かい時に来たら違った印象なのであろうが。)

去年の正月の京都は天気が良くて暖かったが、今年は大違いである。

阿吽寺もこれまで訪れた寺と同様小さな寺で、救いはベンチが置いてあったことぐらいであるが、ベンチに座っていても寒いだけなので早々に立ち去る。

予定では、その後蘇我蝦夷・入鹿の墓とも言われている水泥古墳を訪れて「薬水駅」から電車に乗ることにしていたが、これまでの道中でめげてしまったワシ達は、阿吽寺の近くの「吉野口」の駅から電車に乗って帰ることにした。

このまま帰ったのでは余りにも早すぎるので、ひとつ手前の「八木西口駅」で下車して江戸時代の街並みを残す「今井町」を訪れてみることにした。

今井町は、前に行った時に観光客相手のお店もあったので、時間潰しにはなるだろうと思って行ったのだが、残念なことに正月ということもあって、観光客相手の店はおろか、地元の人相手の店も全部閉まっていて、ゴーストタウンのような町を少し歩いて、すごすごと駅の方に引き返した。

と言うことで、この日は観光としては大外れであったが、まあこんな日もあるであろう。

結局2日の午前零時過ぎに中野の部屋に辿り着いたのだが、ウダウダしているうちにもう4日で、いよいよ明日からは「蔵人」も営業開始である。

昨年秋以来の経済不況に引き続き、コマ劇場も昨年末で閉鎖され今後の計画も未定で、今の歌舞伎町に明るい話題を探すのは難しいが、

「今年も何とぞよろしく!」

である。





    2,008年

   特別会員・・・12月21日

11月9日付けのこのページに、「ブックファーストに行ってきました」というタイトルで、新宿駅西口の「コクーンタワービル」の地下に11月6日にオープンした「ブックファースト新宿店」に、オープン当日に行ってみた時の感想を書いて置いたが、ワシの通勤途上にあるせいもあって、その後も何度かブックファーストには足を運び、何冊か本も買ってみたが、構造的にも内容的にも余り好きになれる本屋ではなさそうである。

例えば、JRの新宿駅方向面から地下を通って来た場合はまだしも、コクーンタワービルの正面玄関から入ると、同じビル内であるにもかかわらず、ブックファーストの正面の場所が分かりづらいのである。

もちろん地下に降りるエレベーターもあるのだが、

「ひとつのコーナーから別のコーナーに移動するのに、いちいち一旦店外に出て、再度別の入口から入り直さなければならい。」

という店の構造のせいもあって、エレベータに乗ると、店の正面入口ではなくコーナーとコーナーの間に出てしまい、自分の現在位置を案内板で確認しなければならない状態に陥ってしまうのである。

それに店員達もまだ店に慣れていないせいか、専門書のコーナーなどを尋ねても、いちいち他の店員に聞いている始末であるし、レジの店員の手際も決していいとは言い難いのである。(まあ、こちらの方はそのうちに改善されるであろうが。)

ところで、今日は正月に備えて髪を切りに行ってきた。

ワシが髪を切りに行くのは、ワシの住んでいるマンションのすぐ近くにある美容院であるが、その美容院はワシと同年配の男性の美容師が、長年チェーン系の美容院で働いた後、数年前に自宅の一階を改装して営業し始めた店である。

そのせいや住宅地の中にある事もあり、地元のお客さんより、以前からの彼の常連のお客さんが多い店のようである。

今日は午後の5時に予約を入れていたのであるが、店に行くと彼が、

「今回は、少し短くしてパーマを当ててみましょうか。」

というので、基本的に髪型はその美容師任せであるワシは、異存無くそうして貰うことにした。

髪を洗って貰った後に、2時間余りかけてカットとパーマにかけて貰ったのだが、それで料金はたったの2千円なのである。

もちろん、特別に安くしてくれているのであるが、美和子さんに勧められてワシが最初に行った時から、カットをした時もストレートパーマを当てた時も、いつも2千円か3千円なのである。

ワシも初期には何度か、せめてもう少し多く受け取ってくれるように頼んでみたのであるが、その都度、

「マスターは、ウチの特別会員なので・・・。」

と言うことで、それ以上の金額は受け取って貰えないのであるが、ワシは特別会員になった覚えもないし、そもそもその「特別会員」が何を意味するのかも知らないのである。

ここでひと言断って置くが、彼は結婚もしていたし(奥さんは何年か前に亡くなっているが)、20歳過ぎの息子さんもいる、新宿2丁目界隈に多い人種とは無縁の普通の男性である。

とは言え、その美容師とは道で顔を合わせる機会も多く、

「安くしてもらって申し訳ないから別の店に行く。」

というわけにも行かないので、特別会員ではない美和子さんが行った時に、多少多めにお金を置いてきて貰っている次第である。

何はともあれ、今年も残すところ後10日であるが、昨今の経済関係の暗いニュースばかりを見聞きしていると、自営業者としては来年に余り期待が持てそうにない今日この頃である。

   インク切れ・・・12月14日

今日は家で来年の年賀状の準備をした。

今年は喪中であったために年賀状は出さなかったので、住所録の方は少し手直しをしなくてはならないので後回しにして、とりあえずは文面の方を作り、そちらの方だけでも今日中に印刷するつもりで作業に取りかかった。

何時間かかけて文面が完成し、早速印刷に取りかかった。

ところが印刷を初めてしばらくすると、少しずつカラーの部分の色が薄くなり出したのである。

「ヤバイ! インク切れが間近だ!」

前にも1・2度こうゆう事態に陥った事があるが、何しろ家のプリンターでカラー印刷をすることなどは殆どないので、インクの残量をチェックしていなかったのである。

慌てて時計を見ると、午後8時30分を過ぎている。

カラーを使った文面の印刷にはそれなりに時間がかかるので、出来れば休日である今日中にある程度の枚数は印刷しておきたいので、インターネットで新宿周辺の家電量販店の営業時間を調べてみると、午後9時閉店が多い中、新宿の東口にある某チェーン店の店舗が10時まで開いていることが分かった。

早速その店に電話を掛けて営業時間の確認と、ワシの使っているプリンター用のカラーインクの在庫の有無を問い合せた。

今時期はまだそれほどではないが、年賀状作製のピーク時になると、インクの在庫切れが起こることがあるのである。

多分、ワシと同じように、印刷を始めてからインク切れに陥って、慌てて買いに走る人が多いせいであろう。

幸いその店は日曜日も10時まで営業しているし、ワシの必要としているインクの在庫もあるということだったので、ワシは早速地下鉄に乗り新宿に向った。

それから約1時間後、無事に文面印刷が再開された。

今は、その待ち時間を利用して、この文章を書いているのである。

ところで、11日に米自動車大手3社(ビッグ3)の救済法案が上院で事実上の廃案となり、議会が主導する救済は見送られる見通しになったが、その最大の要因として、

「賃金などを引き下げてコストを日系メーカーなどと競える水準に抑える条件に、全米自動車労働組合(UAW)が反対したこと。」

が上げられているが、もちろん賃金の引き下げなどは、どのような労働組合も喜んで受け入れるわけはないが、会社が公的支援(=税金の投入)がなければ年内の資金繰りに行き詰まると訴えている時に、従業員の給与がアメリカの労働者の平均所得の2倍以上であると言われているビッグ3の労働者達が、

「税金でもって会社を救って欲しいが、自分達の給料を下げられるのは嫌だ!」

と言うような勝手な言い分を通そうとすること自体が不思議である。(もっとも、そういう勝手な事を言っているのは、労働組合の幹部達だけなのかもしれないが。)

もちろん、今回の危機を招いたのは労働者ではなく、救済をめぐる公聴会に専用のジェット機で乗り付けてひんしゅくを買ったトップ達を含む、ビッグ3の歴代の経営陣であるが、彼等経営陣だけではなく、自分達よりも収入の少ない人間達も払っている税金でもって会社を救済してもらいたいが、自分達の高賃金、好待遇だけは手放さないという従業員の発想自体をも変えなければ、幾ら税金をつぎ込んだところで、会社が延命することはあっても立ち直ることは難しいであろう。

年末に向け、越年資金の調達に必死に走り回っている中小企業の経営者達や、

「会社が潰れるよりは・・・」

と言って賃金カットに耐えているそれらの企業に勤めている人々の姿を身近に見ているワシとしては、アメリカの自動車業界というのは、典型的な大企業病にかかっているとしか思えないのである。

   ブッシュの痛恨事・・・12月7日

米国のブッシュ大統領はテレビのインタビューで、来年1月で8年間に及ぶ自らの在任期間を振り返り、

「大統領の職にあった中で、最大の痛恨事はイラクの情報の誤りだった。」

またイラク戦争については、

「多くの人がフセインを排除する理由に大量破壊兵器を挙げていた。政権の人間だけでなく、多くの議員もそうだった」

などと釈明し、

「情報が違っていたら、と思う。」

と語ったたそうだ。

ブッシュ政権が03年3月、イラク開戦に踏み切った最大の根拠は、

「旧フセイン政権が大量破壊兵器を隠しているという情報だった。」

が、その情報は後の調査報告などで完全に否定されたが、その誤った情報に基づくアメリカのイラク侵攻によって、アメリカ軍、イラク軍の兵士のみならず膨大な数の一般市民が死んでいき、今も死につつあるのである。

そのような間違った情報とそれに基づく戦争であったにもかかわらず、

「何故、そのような誤った情報が大統領を初め政府の高官達信じられるに至ったのか?」

という点になると、今なお不明な点が多いのである。

その真相の解明や責任の所在を明確にしないままで、

「情報が違っていたら、と思う。」

と言われたところで、ブッシュにしてみれば、「痛恨事」でしかなかった事が元で引き起こされた戦争で死んで行った人間が生き返るわけではないし、何よりもその間違った情報にもとずいて戦争を始め多くの死傷者を出し、イラクに大量破壊兵器が存在しないことが明らかになった後も、あくまで「イラク戦争の正当性」を叫び続けた当のブッシュ本人の責任が軽くなるわけでもない。

この問題に関しては、イギリスのブレア前首相は2004年に、

「サダムが実際に生物化学兵器を保有していたという証拠は、開発能力があるという証拠とは異なり、結果的に間違っていた。私はそれを認め、受け入れる」

とイラク開戦の前提だった情報が誤っていたと認めたが、それに対し日本の場合小泉元首相は、

「フセイン大統領が見つかっていないからイラクにフセイン大統領は存在しなかったということ言えますか、言えないでしょう。大量破壊兵器も私はいずれ見つかると思う」(’03年6月の党首討論)

と言うわけの分からない言い訳をしたり、

「(イラクの大量破壊兵器問題は)今、未解決。持っていないとも断定できない。持っているとも断定できない」「日本が(イラク戦争を)支持したのは、…今でも正しかったと私は思っております」('04年1月衆院予算委員会)

と言う発言を繰り返した後に、

’05年の1月には、

「私も(イラク戦争開戦の)あのころはいずれ見つかるんじゃないかと思っていた。しかし、結果的にはないということ。思いと予想と見込みは外れる場合がある」

と言う無責任な発言をするに至っている。

「ブッシュ大統領から、イラクが大量破壊兵器を所有している確固たる証拠を見せられた。」

と言って、いち早くアメリカのイラクに対する軍事行動を支持を表明したのは、他ならぬ小泉元首相である。

ブレアやブッシュの時代が終わろうとも、日本の首相がいくら替わろうとも、イラクでは今日も罪もない市民の血が流され続けているのである。

そんなイラクの人々にとっては、今回のアメリカ発の世界不況はさしずめ、

「アメリカにアラーの神の罰が当たった。」

と言ったところではないのだろうか。

   コマ劇場の閉鎖まで後1ヶ月・・・11月30日

昭和31年(1956年)のオープン以来、50年以上にわたって「歌舞伎町のシンボル」的存在であったコマ劇場も閉鎖まで残すところ後1ヶ月となった。

コマ劇場の隣の東宝会館ビルの方も3月をメドに閉館の予定で、テナント問題が解決すればコマ劇場は来年の1月くらいから、東宝会館の方は来年の3月以降に取り壊し工事が始まる予定である。

土地の所有者である東宝としては、現在二つの建物(コマ劇場と新宿東宝会館)の建っている土地を合わせてその上に一つの建物を建てるというものであるが、跡地には「高層ビルが建つ」とかの噂があるが、現時点では、

「何にも決まっていない。解体期間中に、若干猶予期間があるのでその間に決めよう、だから何ができるか決まらないまま壊し始めてしまうというのが現実。東宝としては、劇場・アミューズメント・映画館・パチンコ店・ギャンブル、これは一切入れないというのが基本的な考え方として持っている。」(「歌舞伎町るねっさんすBlog」よりの引用)

と言うのが現状であるようである。

何故このように新たなビルのコンセプトも決まらないままにコマ劇場が閉鎖される事態になってしまったかと言うと、何年も前から「シネシティ広場」周辺に映画館を所有する4社(東宝、東急レクリエーション、ヒューマックスシネマ、東亜興行)が作る四葉会という組織が、共同で再開発を行う構想を掲げて話し合いを続けてきたが、各社がそれぞれの事情を抱えていて一向に再開発構想が進まないので、「どうやら資金的に余裕がある東宝側がしびれを切らし、赤字続きのコマ劇場を閉鎖する事によって事態の打開を計った」、と言うのが真相のようである。

「東宝のざっくりの計画だと、オフィス、ホテル、物販、飲食、こういったところの複合ビルという表現をしていた。」(同じく「歌舞伎町るねっさんすBlog」よりの引用)と言うことであるが、ホテルや劇場や商業施設やオフィスなどが入った大阪の阪急茶屋町ビルディング(アプローズタワー)と歌舞伎町では、立地条件が余りにも違うのである。

果たしてコマ劇場跡のあの場所に出来たビルに、一体どのようなホテルやオフィスが入ると言うのだろう。

アプローズタワーに入っている「ホテル阪急インターナショナル」のような高級ホテルを、飲食店やFUZOKU店が密集し、周辺に客引きやホスト達がうろついている歌舞伎町のど真ん中に作ったところで、好んで泊まる人がいるとは思えないし、好んで歌舞伎町のビルにオフィスを構えたがるまともな会社があるとは思えないのである。(まあ、ヤクザがステータスとして組事務所を構えると言うことはありえるかもしれないが。)

また同じ理由で、物販や飲食と言ったところで西口や南口のビルに出店しているような有名ブランドの店やそれなりのレベルのレストランなどが入居するとも思えないのである。

それと同時に、コマ劇場が取り壊され新たなビルが建設されるまでの間の工事中の仮囲いの問題もある。

普通の工事現場のような味も素っ気もない仮囲いが歌舞伎町の中心部を覆っている姿を想像しただけでも、寒々とした気がしてくるし、治安上の問題もあるので、仮囲いの壁面にペインティングを施したり写真を張るなり、照明を工夫するなどして、出来るだけ明るい雰囲気にしなければ、工事期間中にコマ劇場周辺のイメージが暗くなってしまう恐れがあるし、劇場周辺の飲食店等への影響も大である。

何なら、いっそのこと仮囲を高くして今のコマ劇場の写真でも貼り付けて、それをライトアップしてみたらどうだろうか?

どうせ公演のない時のコマ劇場は中に入れるわけでもないので、立体感さえ出せれば写真でも同じようなものであろう。

いずれにしても、コマ劇場の閉鎖後の問題は、歌舞伎町全体にとって、現在もっとも大きな問題である。

尚、現在のコマ劇場はロックミュージカル「WE WILL ROCK YOU」の上演のために2005年に外装を改装それたのだが、下に改装前と改装後のコマ劇場の写真を載せておく事にする。

 

   年賀状・・・11月24日

今年も喪中の葉書がチラホラと届く季節になったが、昨年はワシの父親が亡くなったのでワシ自身が喪中葉書を出す方であった。

最近の若者達の中には、

「年賀状のような面倒なものは出さずに、メールで済ます。」

と言う人も多く、ここ数年は年賀葉書の発行枚数は減る一方であるらしいが、それでも今年も40億枚程度は発行されるらしい。

昨年自分が喪中の葉書を出してみて分かったことだが、学生時代からの友人や古くからの知人達の中には、それこそ10年以上会っていない人間も数多くいるのだが、それでも毎年それらの人々から年賀状が届くと、

「ああ、彼も元気でやっているのだな!」

と思って安心したりするのだが、今年の正月はそれがなかったので少し寂しい思いをしたのである。

若い世代の人間に言わせれば、

「相手が元気でやっているかどうかなんて、メールでも出せばすぐに分かることなのに。」

と言うことになるのだろうが、普段からメールのやりとりをしている相手ならともかく、何年も顔も会わさず年賀状のやりとりをするだけの相手に、いきなりメールを出して、

「元気でやってますか?」

と聞くのも何か変な気がするのである。

とは言いつつも、ワシは非常に悪筆な為に、割合早い時期から年賀状の宛名書きにはパソコンを使っていて、これはこれで便利なのだが、 一枚一枚手書きで宛名を書いて送ってくれる人々に対しては後ろめたい気がするのである。

それに、手書きの時代のように、相手の住所を書きながら、

「あいつも東京を離れて長くたつなあ!」

とか、

「この**町というのはどんなところなんだろう?」

と言う風に考える事も無くなってしまった。

と言うことで、今夜はそろそろ年賀状の準備として住所録の整理でもしておくことにしよう。

   首相の読み違い・・・11月17日

いつの間にか今年も残すところ1ヶ月半になってしまったが、このところ年々月日の経つのが早く感じられるようになってきている。

今年の正月に京都に行ったのが、ついこの間のような気がしているうちに、もうすぐ年末である。

1年でさえもそうなのだから、1ヶ月、1週間などはそれこそ「アッ」という間に過ぎてしまう感じである。

ところで、最近「未曽有(みぞう)」を「みぞうゆう」と読んだり、「頻繁(ひんぱん)」を「煩雑(はんざつ)」と間違えたり、「踏襲(とうしゅう)」を「ふしゅう」と誤読するなど、麻生首相の相次ぐ漢字の誤読ぶりがマスコミにも取り上げられているが、答弁や原稿を作製する事務方も、

「いかに愛読書がマンガの首相でも、さすがにこのくらいの漢字は読めるだろう。」

との判断からルビを振らなかったのかも知れないが、これからは彼の読む原稿には出来るだけルビを振った方が無難であろう。

麻生首相は、それ等の誤読に対する記者団の質問に対して、

「んーそうですか。単なる読み間違い。もしくは勘違い、はい」

と答えているらしいが、さすがに愛読書がマンガであると言って憚らない人間だけのことはあって、間違えて恥ずかしいと言う感覚が欠如しているようである。

これまでの数々の失言問題からしても、麻生首相に知性や教養を求めるのは無理だとしても、せめて最低限の羞恥心くらいは持っていて欲しいとの思いも今回のことで打ち砕かれたわけである。(そもそも政治家に羞恥心などを求めるのが無理なことなのかもしれないが・・・。)

まあ、漢字の読み違いは誰にでもあり得ることなので、総理大臣が漢字の読み間違いをしたからと言って、国民の生活に直接響くことは無いと思うが、経済や政治や外交の現状や将来の読み違いは国民生活に非常に大きな影響を与えるので、「単なる読み間違い。」では済まないことを首相には充分心して欲しいものである。

   ブックファーストに行ってきました・・・11月9日

前回のこのページに、「何となく不自然な」というタイトルで、航空自衛隊トップであった田母神(たもがみ)俊雄・前航空幕僚長の懸賞論文の最優秀賞受賞騒ぎの事を書いたが、その後の報道で、

「懸賞論文を主催したアパグループの元谷外志雄代表とは10年来の親交があった。元谷氏の出版パーティーに出席するなど、その親密ぶりは関係者の間では有名だった。 」

とか、

「防衛省は7日、新たに16人の航空自衛隊員がアパグループの同じ懸賞論文に投稿していたことを明らかにした。これで空自からの投稿者は94人となり、投稿者全体の4割を占める。」

「アパグループの懸賞論文に投稿していた空自の大半が、田母神氏が以前トップを務めた小松基地(石川県小松市)の所属。アパグループ代表の元谷外志雄氏は『小松基地金沢友の会』の会長だった。」

という事実が次々に明らかになるにつれ、ワシが感じていた不自然さや、

「今回の騒動が一種の出来レースのような気がしてくるのである。」

という思いも、あながち外れてはいなかったということが証明されたように思うのである。

制服組のトップクラスにある人間からしてこれでは、シビリアンコントロールも糞もないであろう。

ところで、新宿駅西口の「コクーンタワービル」に11月6日にオープンした「ブックファースト新宿店」に、オープン当日にさっそく行ってみた。

この書店は、コクーンタワーの1階・B1・B2の3フロアー(1,090坪)を占める大規模店で、書籍・雑誌約90万冊を取り揃えている、という謳い文句であったが、実際には、1階はカフェやギャラリーやインターネットコーナーなどがあるだけで、実質的な書店としてのスペースは地下1階・2階だけである。

ブックファーストのホームページでは、

「地下1階・地下2階には、1つの書店の中にありながらまるで7つの専門書店を歩き回っているかのような空間的なおもしろさ。」

という風に紹介されているが、ビルの構造のせいか、ひとつのコーナーから別のコーナーに移動するのに、いちいち一旦店外に出て、再度別の入口から入り直さなければならなかったり、さして大きくない書棚が視界を塞ぐように置かれている場所があったりと、新宿の「ジュンク堂」のすっきりとしたレイアウトと大型の書棚を見慣れた目には、慣れないせいもあるだろうが、まるでスーパーマーケットに紛れ込んだような雑然とした感じがした。

また、幾つかの専門書のコーナーも見て歩いたが、専門書も充実しているとは言い難い状況である。

ただ、、洋雑誌・地方タウン誌をはじめ資料価値の高いバックナンバーの品揃えも充実させ、5,000 種類もの雑誌が並んだ「T O K Y O M a g a z i n e C e n t e r」のコーナーは、一見の価値ありである。

ワシとしては、本屋に求めるのは天井に剥き出しの配管を通すなどといったデザイン的な面白さではなく、あくまで

「在庫点数が多くて、なおかつ欲しい本が探しやすい。」

という一点である。

ただし、この書店はワシが家から店まで歩いてくる途中にあるために、今後もこの書店に立寄ることは多くなりそうである。

   何となく不自然な・・・11月3日

先日、航空自衛隊トップの田母神(たもがみ)俊雄・航空幕僚長(60)が、

「我が国が侵略国家だったというのはぬれぎぬ。」

「我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者。」

と主張する論文を書き、民間企業が主催した懸賞論文に応募し、最優秀賞を授賞していた事が発覚した。

彼の論文は、旧満州・朝鮮半島の植民地化や第2次大戦での日本の役割を一貫して正当化し、集団的自衛権の行使を禁じる現行憲法に疑問を呈しているものであり、いわば政府見解を否定する内容で、彼は早速31日に更迭され、結局11月3日付けで定年退職をした。

もちろん、誰がどのような意見や見解を持とうとも自由であるが、さすがに航空自衛隊のトップたる者が、例え民間の懸賞論文に応募という形を取ったとしても、このような内容の論文を公表すれば更迭されるのは致し方ないであろう。

それにしても、田母神氏が応募したのが、経営するホテルとマンションが一連の耐震偽装問題でも話題となった企業であるアパグループが今年5月に創設したばかりの、第1回『「真の近現代史観」懸賞論文なるものであり、その審査委員長が名うての右翼的歴史観の持ち主の上智大名誉教授の渡部昇一氏であるというのが気に掛かるのである。

航空自衛隊のトップたるものが、今年5月におよそこのような「近現代史」に無縁そうな企業によって創設されたばかりの懸賞論文に、応募すること自体が何となく不自然な気がするのである。

もし今回の受賞者が田母神氏のような人物でなかったら、この懸賞論文の事が話題に上がることすら無かったであろうと思われる程度の賞である。

ところがそこに、渡部昇一氏が絡めば、何となく全体の構図が見えてくるような気がするのである。

田母神氏がその後も、論文に書かれた政府見解を否定する内容について、

「誤っているとは思わない。政府見解は検証されるべきだ」

との主張を繰り返しているのを見るにつけ、今回の騒動が一種の出来レースのような気がしてくるのである。

最近の若者達には渡辺氏流の歴史観に同調する者も少なくなく、今回の田母神氏のようなケースも、そのような人々にとっては一種英雄的な行為に映るのかもしれないが、今回の騒動がアジアの国々の人々との友好にとってマイナスである事は確かである。

   新宿プラザ劇場の閉館・・・10月26日

「コマ劇場」は今年一杯での閉館が決定しているが、コマ劇場と同時に再開発が予定されている隣の「東宝会館ビル」にある、1000席を超える客席数を誇る名門映画館「新宿プラザ劇場」が10月31日をもって閉館することが決定している。

1969年11月に1,044席を誇る日本を代表する映画館としてオープンしたこの劇場は、大画面での迫力を存分に楽しめる劇場で、日本では唯一「スターウォーズ」6部作全てを興行した映画館であり、また1997年12月に公開した「タイタニック」においては26万6千人という一興行での動員記録を樹立した、まさに歌舞伎町を代表する映画館である。

ワシもこの映画館では数多くの映画を観てきたが、このページを読んでいる人々の中にも、この劇場で映画を観たことのある人も多いはずである。

赤い絨毯を敷き詰めた広いロビーは、今のシネコンにはない老舗大劇場の風格のようなものが漂っていて、

「超大作を観るならこの劇場で!」

と決めていた固定フファンも多い劇場であった。

このような映画館が閉館するのは残念ではあるが、これも時代の流れであろう。

尚、「新宿プラザ劇場」では、閉館後の11月1日(土)〜11月7日(金)に長年のファンに感謝の気持ちを込めて、歴史的な名作を1000円均一で上映する予定である。

日時 
1日(土)
2日(日)
3日(月)
4日(火) 
上映作品 
ベン・ハー
2001年
宇宙の旅
ゴッド・ファーザーPartT
ゴッド・ファーザーPartU&PartV 
日時 
5日(水)
6日(木) 
7日(金)
 
上映作品 
トップガン
サウンド・オブ・
ミュージック 
タイタニック
 


その他未確認情報ではあるが、「シネシティ」周辺の映画館街では、

「新宿ミラノが来年夏以降の上映映画のフィルムの手配を行なっていない。」

との噂もあり、歌舞伎町の映画館街が一体どうなっていくのかが不安視されているのが実情である。

   近々新宿西口に大規模書店がオープン・・・10月19日

最近新宿の西口を訪れたことのある人なら、駅の正面に建つ右の写真のような斬新なデザインのビルを目にした人も多いと思う。

写真のビルは、「モード学園コクーンタワー」という地上50階、地下4階、最高部203.65メートル、巨大な高層建築物で、東京モード学園(新宿区)が2006年に建設を開始した建物で、設計は都庁などを設計した丹下都市建築設計が担当したビルである。

ワシは、家から歩いてくる途中でこのビルの近くを取るので、ビルのこと自体は着工当時から知っているが、せいぜい

「こんな巨大なビルを建てるなんて、専門学校というのは儲かるのだな。」

というくらいの認識で工事が進むのを眺めてきたのだが、最近になって、このビルの中に大型の書店が入ることになったと知って少々興味がわいてきた。

この書店は「ブックファースト新宿店」で、「コクーンタワー」の1階・B1・B2の3フロアー(1,090坪)を占める大規模店で、書籍・雑誌約90万冊を取り揃え、11月16日にオープン予定である。

この規模は、三越の7・8階当時(現在は6階も)のジュンク堂クラスの規模で、西口周辺では他を圧倒するスケールの大規模書店である。

これまで、西口周辺の高層ビルに勤めるサラリーマンやOLの人達は、大規模な書店へ行くのなら、東口の紀伊国屋本店やジュンク堂か、もしくは紀伊国屋新宿南口店まで行かなくてはならなかったのが、「ブックファースト新宿店」のオープンにより、場合によってはその必要がなくなるのであるから、それらの書店や小田急の10階にある三省堂なども含め、迎え撃つ方もなかなか大変なことであろう。

また一説によると、

「昨年10月に閉店した渋谷店の名物コーナー「TOKYO Magazine Center」を復活させ、資料価値の高いバックナンバーなど約5,000種類の雑誌を取りそろえる。」

との噂もあり、本好きなワシとしては興味津々である。

と同時に、大規模書店の華々しいオープンの陰で、若者の活字離れが言われるなか、この10年間で全国の書店数が6000店減って、1997年には2万3千店以上あった書店が、今や1万7千店程度まで減っている現状のあることも忘れてはいけないと思うのである。

   とりあえずビール・・・10月13日

先週は僅か3日間で日経平均株価が29%も下落し、10日間では32%の下落率でした。

僅か2ヶ月前には1万3千円だった平均株価が、連休に入る直前には8100円くらいまで下がったのですから、新聞やテレビではまるで大恐慌の再来のような騒ぎ方なのも仕方がないのかもしれません。

「蔵人」のお客さんでも、株式投資をやっている人はもちろん、そうでない人でも会社の社員持株会などで自社株を買っていたり、投資信託を買っていたりと、それなりに今回の株価下落の影響を受けていたり、また今後の実物経済への影響を考えると、グラスを口に運びながらも、ため息のひとつも出てくるのは仕方がないことだろう。

外資系ファンドが演出した都心の土地のバブルは、彼等が撤退し始めた後は崩壊しはじめ、今やその崩壊は誰の目にも明らかになってきている。

不動産関係の会社の中には、投資目的で高額のマンションなどを抱え込んでいるところも多いようだが、今後はどうなっていくのだろうか。

このように、世の中が不景気になってゆくと、飲食業界も当然その影響を受けるわけで、先日テレビのインタビューに答えていた新橋あたりのサラリーマンは、

「節約のために、先ずは『とりあえずビール』を注文するのを止める。」

と答えていたが、今の若者の間では、この「とりあえずビール」と言う習慣自体がなくなってしまっているそうである。

かつて「蔵人」によく来ていた日本語の堪能なアメリカ人のお客は、どこの店に行ってもよく耳にする「とりあえずビール」の「とりあえず」を、長い間ビール会社の名前だと思っていたそうである。

株価の方は、日本が休日であった今日、

「欧州各国の株式相場は、前週末の終値から大幅に値を上げて始まった。」

そうであるが、今週の日本の株価の方はいかなる事になる事やら・・・。

   金融救済法案・・・10月6日

最大7千億ドル(約75兆円)の公的資金を投じて金融機関が抱える不良債権を政府が買い取るという「金融救済法案」が、ようやく下院で可決され成立したが、当初下院で法案が否決されたのは、

「これまで巨額の利益を上げてきた民間の金融機関が、損失を出したからといって何故不良債権を巨額の税金を使ってまで買い取る必要があるのか?」

と言う思いの人々が多かったからであろう。

確かに、米フォーブス誌が毎年行っている「米大企業のCEO報酬ランキング」によれば、金融大手のCEOの2007年の報酬額(給与、ボーナス、権利が確定した株式供与、行使されたストックオプションなどの合計金額)は以下のようになっている。

〈2007年のCEO報酬〉

・カントリーワイド/113億1240万円
・ゴールドマン・サックス/81億920万円
・リーマン・ブラザーズ/79億900万円
・JPモルガン・チェース/22億7480万円
・バンク・オブ・アメリカ/22億1430万円
・モルガン・スタンレー/19億4150万円

リーマンブラザーズを破綻に追いやったリチャード・ファルドCEOなどは、

僅か1年ほど前の記事であるが10数年もCEOとして君臨し、毎年数十億円の報酬を手にしてきたのである。

また、CEOだけではなく一般の金融機関の社員達の中にも、他の業種の労働者からすれば考えられない程巨額の報酬を得ていた人間も数多くいるのである。

サブプライム問題が顕在化し、金融機関の抱える損失がうなぎ登りに巨大化してみて分かったことは、彼等がやっていたことは投資と言うよりも、一旦住宅の価格が下がり出すと途方もない損失を抱えることが明らかな、一種のギャンブルのようなものであったと言うことである。

そして、それらのリスクを含んだ金融商品は様々に形を変えアメリカ国外の金融機関にも大量に保有されていたために、アメリカ発の金融危機は欧州を初めとして、世界各国の金融機関を巻き込んで行ったのである。

何故金融や投資の専門家である金融機関が、このような愚かな行為を演じることになったかというと、全ての前提に

「住宅(土地)の価格は永遠に下がらない。」

と言う、かつてどこかの国でも信じられていた、いずれは破綻する根拠のない神話が信じられていたからである。

一度住宅の価格が下がり出すと、どういう事態が出現するかは関係者達にはある程度分かり切っていたはずである。

それすら分からないで数十億の報酬を貰っていたのなら詐欺士のようなものであり、それが分かっていながら、それに対してなんら対策を講じていなかったのなら、経営者とは言えないであろう。

それ等の事態に対しての準備をするよりも、目先のギャンブル的な投資にうつつを抜かしていたのは、先のことより今この瞬間に出来るだけの利益を上げることのみがCEO達自らが高額の報酬を手に入れる唯一の方法であると言う、アメリカ型の経営方法に問題があったのではないだろうか。

また、今回1度は否決された「金融安定化法案」をまとめたポールソン財務長官は、ゴールドマン・サックスの前CEOである。

要するに彼もかつては高額の報酬を得ていたクチである。

それらを含めてCEOの報酬一覧を眺めていると、今回の騒動は、何やら官民一体となった民から官への損失移転の茶番劇じみて見えてくるのである。

   船出早々バタバタと・・・9月28日

「成田空港は『ごね得』」、「日本は単一民族」、「日教組批判発言」の失言(?)3連発の中山国土交通大臣は、麻生首相に辞表を提出して受理されたようだが、彼は「日教組の強いところは学力が低い」との発言に関しては撤回せず、改めて「日教組をぶっ壊せ」との発言を繰り返している。

彼がかつて文部科学大臣であった頃に、日教組との間で何があったのかは知らないが、そもそも「国土交通大臣」としての会見の場で、『日教組の強いところは学力が低い』などという管轄外の話を持ち出すことの自体が余計なことだし、

「私がなぜ全国学力テストを提唱したかといえば、日教組の強いところは学力が低いんじゃないかと思ったから。現にそうだよ。」

と言う発言に至っては単なる「日教組憎さ」以外の何ものをも表していないであろう。

それにしても、もしこの発言の内容が本当だとしたら、「全国学力テスト」なるものは、一大臣の単なる思い込みを立証するために莫大な予算をつぎ込んで導入されたと言うことになる。

こんな事を自慢げに話す人間とは、一体どのような教育を受けてきた人間なのだろうか?

彼の発言は文部科学相時代にも何度か問題になったし、彼の任命権者である麻生首相自身も、政調会長時代の2003年に、東京大学での講演において、

「『創氏改名』は朝鮮の人々が満州で仕事がしにくかったから、名字をくれといったのがそもそもの始まりだ」

との発言で物議を醸し出した事もある人物で、この発言は今回の首相就任の際にも、韓国のマスコミ各紙で批判されている。

これは人から聞いた話で真偽は不明なのだが、麻生太郎はかつて、

「日本と中国は、聖徳太子の時代から仲が悪かったのだから、仲良くできるわけがない。」

と言ったそうである。

歴史も成田問題も、中途半端に知るくらい恐ろしいことはないのである。

いずれにしても、船出早々、早くもバタバタしている「麻生丸」である。

P.S・・・小泉元首相が引退を表明!

「おー、日本の政治家にしては退き際が見事だな!」

次男を後継者に指名。

「なーんや。結局はそういうことか!」

   風邪をこじらせたようだ・・・9月23日

先日ひいた風邪を、どうやらこじらせてしまったらしい。

昨日も相変わらず鼻はグジュグジュで身体もだるかったが、本日に至っても症状は余り改善していない。

そうは言っても、日曜日を棒に振ってしまった為に、やらなければならない作業が溜まっているので、仕方なく起きてパソコンに向って、取りあえずメールをチェックしようとメールソフトを立ち上げたのだが、そんな折もおり、ワシが借りているサーバーの方のメールサーバーに接続出来ないのである。

プロバイダの方のメールの方は問題なくチェック出来るので、

「多分サーバーの方に問題が起こっているのだろう。」

と思い、「蔵人」のホームページにアクセスしてみたが、案の定接続出来なかった。

サーバー会社に電話で問い合せてみたが、今日は祭日の為に、留守電の目セージが流れていた。

休日を利用してサーバーのメインテナンスを行なっているくらいなら、数時間もすれば復旧するだろうから、メールのチェックやホームページの更新などの作業はそれからでも良いのだが、問題はサーバーの方に大きな問題が生じている場合は、暫くの間メールがチェック出来ないし(メールを出すだけなら、プロバイダのアドレスの方で可能である。)、ホームページもその間見られないし、更新も不可能になるのである。

先日も知り合いが、

「パソコンがクラッシュして、データが飛んでしまって困っている。」

と言っていたが、パソコンのトラブルは、

「そろそろ、データのバックアップを取っておかなくては。」

と思いだした頃に起こることが多いようである。

ワシはパソコンを使い出した初期の頃に何度か痛い目にあっているので、割合マメにバックアップを取っている方であるし、ハードの方のトラブルに備えて、予備のノートパソコンでもインターネットやメールのチェック等は出来るようにはしてある。

まあ、今回のサーバーのトラブルが、復旧までにどのくらい時間がかかるかは分からないが、復旧し次第この文章をアップする予定である。

しかし、たったこれだけの文章を書いている間に、何度鼻をかんだことだろう。

頭は相変わらず「ボッ」としているし、風邪はこじらすとやっかいであるので、皆さんも気を付けて下さい。

P.S・・・上の文章を書いてから数時間後に、サーバーが復旧したようなので、無事にアップ出来ました。

   風邪をひいてしまった・・・9月21日

金曜日の夜くらいから、鼻がグシュグシュするし、少し寒気もするなと思っていたら、本格的に風邪をひいてしまったようである。

幸いなことに熱は余り出ないのだが、起きあがっても頭が「ボー」とした状態で、昨日の日曜日は一日中ベッドの中で過ごしてしまったので、日曜日の夜に更新することにしているこのページの更新が出来なかった。

現在時刻は、月曜日の午後2時過ぎであるが、まだ心身共に一向にすっきりとはしない。

まあ幸いなことに、今日一日店に出れば明日は祭日で店は休みなので、何とか今日一日頑張って見ることにする。

明日、風邪が治っていたら、改めて「ひとり言」を書くつもりである。

   H氏の笑顔・・・9月15日

金曜日の夜の10時頃、秋田在住のH氏が奥様と一緒に突然店に顔を出して下さった。

H氏は2度の東京での単身赴任中、よく「蔵人」に顔を見せて下さっていたワシと同じ年のサラリーマンである。

とりわけ10年ほど前から5年ほど前にかけての2度目の東京生活では、西武新宿線沿いに住まれていたこともあって、一人でブラッと顔を見せて下さることが多かった。

H氏は昔は体操をやっていたというだけあって、小柄ながらも筋肉質の引き締まった体型で、山歩きが好きで、東京での単身赴任中もよく日帰りで近場の山に出掛けて、帰りがけに「蔵人」に顔を出して、はにかんだような笑顔を浮かべながら美味しそうにビールを飲んでその日の行った山のことなどを話して下さった。

そのH氏が「脳の方の病気で突然倒れられた。」、という話を人づてに聞いたのは昨年の11月のことである。

共通の知り合いが少ないために、その後入ってくるニュースは、

「春頃には退院されて、リハビリに励みながら取りあえず職場復帰を果たされたらしいが、まだまだ体調は完全ではなく、記憶の方も曖昧な状態が多い。」

という断片的なものであった。

病気の性格上、よほど奥様の方とも親しければ別だが、そうでない場合こちらから電話などで状態を問い合せにくいものである。

時折彼のホームページを覗いたりもしたのだが、倒れる前の状態のままで、更新された様子もないままであった。

それが、7月の20日過ぎにH氏から暑中見舞いが届き、取りあえず順調に回復に向われているようなので、それをきっかけにこちらの方からもメールを出してみたのである。

暑中見舞いをきっかけにH氏にメールを出した人も多いだろうし、再開された本人のホームページにも、

「パソコンで文章を打つのもひと苦労」

というようなことが書いてあったので、返信は期待していなかったが、それから2ヶ月弱。

まさか、何の前触れもなしにH氏が「蔵人」に顔を出してくれるとは、ワシ自身も思ってもいなかったのである。

H氏自身は、外見的には健康そうで肌の艶もいのだが、まだまだ記憶の混乱があったり、痛みがあったりでなかなか大変そうである。

それでも、倒れたのが丁度会社の人と一緒の時だったので、その人のお陰ですぐに病院に緊急入院して治療を受けられた事が幸いだったようである。(H氏はこの時も、単身赴任中だったのである。)

何でも今回は、新宿で行なわれた知り合いのオペラ公演を見るために上京したそうだが、ホテルは新橋なのにわざわざ、「心配をかけたから」と言うことで、奥様と一緒に「蔵人」に顔を見せて下さったのである。

有り難いことである。

「お酒は大丈夫なの?」

とワシが聞くと、

「せっかくの機会だから、少しだけなら。」

ということだったので、ジョッキではなくグラスに生ビールを入れてH氏と奥様にお出しした。

ワシはウーロン茶で、美和子さんは日本酒で、4人で再開を祝して「乾杯」。

H氏の顔一杯に笑顔が広がる。

僅か30分ほどの時間であったが、ワシはH氏の笑顔を見て少し「ホッ」とした。

もちろん、今日に至るまでの一年近くの闘病生活やリハビリ生活の大変さや、奥様のご苦労、そして将来に対する不安やこれからも続く闘病生活のことを考えると、大変なことは充分分かるのであるが、H氏が顔にあの笑顔を浮かべることが出来る限り、H氏は持ち前のガッツでそれらの苦難を乗り切ってくれるに違いないと思う次第である。

   沖縄返還「密約」問題・・・9月8日

9月1日の朝日新聞に、

「72年の沖縄返還に至る日米交渉の際の「密約」について、ジャーナリストや作家、学者らが2日、秘密合意を記した3書簡の情報公開を外務省と財務省に求める。この書簡はすでに米国立公文書館が公開し、日本側交渉責任者だった元外務省アメリカ局長も密約の事実を認めているが、日本政府は一貫してその存在を否定している。」

という記事が出ていた。

この密約は、

「1972年に沖縄が日本に返還される際に、本来はアメリカ側が負担すべき返還費用400万ドルを日米両国政府間の密約によって、日本政府が肩代わりした。」

事などを主な内容としているのであるが、記事にあるように、この密約の存在自体は後に公開されたアメリカ政府の外交文書で裏付けられているし、沖縄返還協定をめぐり、返還した土地の原状回復補償費を日本側が極秘に肩代わりしたとされる米側との「密約」の存在を、返還当時の外務省の北米局長であった吉野文六氏も既に2006年に、

「返還時に米国に支払った総額三億二千万ドルの中に原状回復費用四百万ドルが含まれていた」

と認めているのである。

02年6月に、日本側の肩代わりを「日米間の密約」と明記した米政府の文書が米国立公文書館で見つかり、密約の存在が改めて裏付けられたが、それにもかかわらず、

「原状回復の費用を日本側が負担するという密約は一切ない」

と述べたのは当時の福田康夫官房長官である。

その後も、現在に至るまで政府は一貫して沖縄返還時の「密約」の存在を全面否定続けているが、その理由のひとつには、一度「密約」の存在自体を認めてしまうと、「有事の際の日本への核持ち込みに関する密約」等にも触れなくてはいけなくなるからであろう

さて、我々の年代以上の人間なら記憶にあるであろうが、この密約問題は、当時の毎日新聞記者西山太吉氏が入手した裏付けとなる文書を元に野党議員が国会で政府を追及したが、その後この文書の入手先を巡り一種の男女スキャンダルのような低レベルな問題へとすり替えられてしまった「外務省機密漏洩事件」である。(この辺の問題に関しては、マスコミの姿勢にも大いに反省すべき点があると思うのである。)

その西山元記者は、

「数多くの沖縄密約は、単なる裏取引ではなく、国会の承認案件である条約案にウソを書いたり、あるいは国会に上程しないまま隠した国家的な犯罪だ。」

と述べているが、この種の密約が沖縄返還交渉の際にだけしか結ばれなかったという保証はない。

その後も日米間の交渉の際に、色々な種類の密約が結ばれた可能性もあるのである。

従って、この密約の存在が当時明らかになっていれば、その後の日米関係は今とはかなり変ったものになっていた可能性が大である。

そういった意味で、今回の情報公開の請求の動きと、日本政府の今後の対応(いつまで国民を馬鹿にし続けていられるのか)や、マスコミの動きを興味を持って見守っていきたいと思うのである。

   「能登の花ヨメ」・・・8月31日

最近は日曜日は家にいることが多いワシであるが、今日は夕方から新宿の「K’s CINEMA」という映画館に「能登の花ヨメ」という映画を観に行ってきた。

と言うのは、この映画の白羽弥仁監督が「蔵人」の長年のお客さんであるので、その縁で観に行ったのである。

実は、白羽監督にとってこの映画が第2作目の作品であるが、彼がデビュー作品である神戸を舞台にした「She's Rain」を撮ったのは1993年で、その頃は確か彼も20代の青年であったはずである。

あれから15年の歳月が流れ、かつては高校生の恋物語を描いた青年監督が、今や立派な中年監督として能登半島を舞台に嫁と姑の関係を軸にした作品を撮ったのである。

この間幾つもの企画が立てられながら、色々な理由でその企画が実らず、15年もの歳月が流れたわけであるが、その間、白羽監督の映画に賭ける情熱は些かも衰えることはなかった事が、今回の作品につながったのである。

映画、「能登の花ヨメ」に関する詳しい事は下記のサイトを御参照下さい。

  http://www.notonohanayome.com/


映画を見た後、今度はワシは「明治通り」の方にあるCSの某放送局を訪れた。

この放送局の社員の人々もよく「蔵人」に顔を出してくれるのであるが、実はこの放送局は毎年日本テレビの24時間テレビに対抗して同時期に24時間放送をやるのであるが、昨日と今日がその当日だったのである。

それでワシは、差し入れがてら彼等の職場を訪れてみたのである。

さすがにどのスタッフの顔にも疲れが浮かんでいたが、会社全体が熱気があふれていた。

放送局からの帰りに花園神社から「ゴールデン街」を抜けて帰ろうとしたら、「ゴールデン街」では丁度「納涼感謝祭」というのが行なわれていて、屋台が出たりライブが行なわれたりしていたので、しばらく「ゴールデン街」をブラブラしてみた。

以前まだワシが酒を飲んでいた頃は、店が終わってから「ゴールデン街」まで飲みに来ていたりしていたが、最近は滅多に来ることもなくなってしまっている。

もっとも、最近のゴールデン街は昔と違って健全なショットバー風の店が多く、客層もずいぶんと若返って来ているが、それらの店に挟まれるように、昔ながらの店の看板もまだ何枚かは掛かっていた。

もう少しブラブラしようと思っていたが、途中で雨が降り出してきたので家に帰ることにした。

このところ昼間は晴れていても夜になると激しい雷雨になる、という不順な天候が続いているが、毎晩のように降る激しい雨は「飲み屋泣かせ」である。

   平成も既に20年・・・8月24日

言うまでもなく、今年は平成20年である。

それで、今年の8月15日の終戦記念日に、

「平成になってからの長さが、昭和が始まってから終戦を迎えるまでの長さと同じになった。」

と言うことに、ふと気がついたのである。


ワシ自身が昭和史、とりわけ戦前の歴史に興味があるせいか、実際にその時代を生きたわけでもないのに、昭和元年から終戦までの間には随分色々な歴史的、社会的な出来事があったような気がするのだが、平成の方は実際にその時代を生きていながら、昭和に比べて印象に残る歴史的、社会的な出来事が少ない空疎な時代のような気がするのである。

例えて言うならば、昭和の方は、

「日本という国が、昭和元年から色々な出来事を経て、ようやく昭和20年の8月15日に至った。」

という感じなのだが、平成の方は、

「えー、もう今年で平成に入って20年も経つのか! ところで、この20年間って一体何があったんだっけ?」

と言う感じなのである。

それで、平成になってから起こった出来事を少し拾い出してみると、

平成元年(1989年) ベルリンの壁崩壊  

平成3年(1991年) 湾岸戦争勃発、ソ連崩壊

平成5年(1993年) 細川内閣発足により、自由民主党が野党に

平成7年(1995年) 阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件が発生。

平成9年(1997年) 香港返還

平成13年(2001年) アメリカで同時多発テロ発生、アメリカによるアフガン攻撃

平成15年(2003年) アメリカによるイラク侵攻

と言うふうに出来事自体はあるにはあるのだが、「阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件」は犠牲者の数も多くその衝撃は大きかったものの、昭和の「満州事変」や「原爆投下」などとは全く性格の違う出来事であるし、自民党の下野も、今となっては、

「そんな事もあったなあ。」

と言う程度である。

また、ベルリンの壁の崩壊やソ連邦の崩壊なども世界史的には大きな出来事であるが、日本がそれに大きく関わったと言うような出来事ではないし、アメリカによるアフガンやイランに対する攻撃に対しては、我が国はアメリカの政策を追認するのみである。

上記の出来事以外にも、例えば「郵政の民営化」や「防衛庁の防衛省への昇格」や、来年度から実施される「裁判員制度」の導入などもあるのだが、これらが我々の生活にどのような影響をもたらすのかは、もう少し時間が経たなければ分からない部分も多い。

平成という時代が空疎な時代なのかどうかは別にしても、国民にとって何が重要で、何が重要ではないのかが見えにくい時代になってきているのは、確かなような気がするのである。

   ワシの夏休み・・・8月14日

今年の夏休みは8月9日(5日)〜14日(木)までである。

最近は昔のように、休みの前日深夜まで店を営業して、ほとんど眠らずに休みの初日に旅行に出掛けるというような強行なスケジュールは避けて、出来るだけ1日休んでから旅行に出掛けるようになったが、今回も9日は家でウダウダして過ごした。

そして10日から12日まで2泊3日で美和子さんと長野県の白馬の方に行ってきた。

以下はその旅行記である。

8月10日

新宿駅発10時7分発の「あずさ55号」に乗り、14時6分に終点の白馬駅に到着。

次の日は朝早くから「栂池自然園」を歩く予定なので、この日の宿泊予定は「栂池自然園」のすぐ近くにある「栂池ヒュッテ」というところなのだが、そこに向う途中でちょっと寄り道をした。

と言うのは、この白馬のある小谷村は新潟県との県境にある長野県北部の山村であるが、江戸時代には日本海の塩や海産物などを運んだ千国街道と呼ばれる「塩の道」の中継地点にあたり、かつては背中に荷物を背負った牛と、それを引く牛方達が道中で一緒に寝泊まりするための牛方宿(うしかたやど)という宿屋が点在していたが、現在ではゴンドラ乗り場からほど近いところにある牛方宿が現存する唯一の牛方宿である。

そこで、その牛方宿を訪れる為に途中のバス停でバスを降りて、炎天下の山道を歩き出した。

30分程歩いて辿り着いた牛方宿は、19世紀初頭の建築で、間口6間、奥行10間ほどの茅葺きの建物である。

一階の入口近くに5・6頭の牛をつないでおけるスペースがあり、土間の上の中2階の牛を見下ろせる位置が牛方達の寝床になっていたようである。(建物の奥の方には、普通の旅人達を泊めるための客間もあった。)

何より嬉しかったのは入場料金の安さである。

一般300円、小・中学生100円であるが、残念ながらワシ達が行った時には他にお客はいなかった。

帰りは舗装道路の方を歩き、約40分ほどで「栂池自然園」に向うゴンドラの乗り場に辿り着いた。

ゴンドラ乗り場の「栂池高原駅」からは、ゴンドラとロープウェイを乗り継いで、全長5,320m、約26分間の空中散歩で一気に標高1,900mの世界に到着である。

「栂池ヒュッテ」にチェックインした後に、散歩がてら「栂池自然園」の入口まで行ってみた。

夕方の空に、杓子岳、白馬岳、小蓮華山等がくっきりと見えた。

明日の天気も良さそうで、楽しみである。

8月11日

午前5時起床。

朝6時半からの朝食もそこそに、早速「栂池植物園」に向う。

「栂池自然園」は白馬連山を間近に望む標高1900〜2000mの地点に広がる、約100ヘクタールの日本有数の規模の高層湿原で、園内には5.5Kmの遊歩道が整備されていて約3時間半で一周出来るようになっている。

それだけに人気も高く、夏場は混雑が予想されるので、ワシ達はゴンドラとロープウェイで下からの観光客が押しかける前に出発したくて、前夜わざわざ「自然園」の近くに宿を取ったのである。

昨日の夕方に来た「自然園」の入口近くからは、この日も白馬連山の峰々が朝日に映えていた。

見渡す限り、まだ園内にはほとんど人影がない。

早速、整備された木道の上を歩き出す。

「ミズバショウ湿原」、「ワタスゲ湿原」、「浮島湿原」と歩き1時間以上掛けて「ヤナセ尾根」分岐の手前まで来た時である。

「あ、痛い!」

ワシの少し後方を歩いていた美和子さんが突然叫んだ。


その声に振り返ってみると、美和子さんが転んでいた。

濡れた葉っぱか何かを踏んだ拍子に滑って転んだらしいのだが、悪いことにその際に左足を挫いたようである。

靴を脱いで調べてみると、くるぶしの下あたりに痛みがあるようだ。

湿布薬は常備しているので、美和子さんはそれを患部に貼り再び靴を履いてみた。

「歩けるか?」

と聞くと、

「大丈夫、痛みは大したことがないから歩けるわ!」

もっとも、こんなところで全然歩けないと言われても、ワシとしても困るのであるが・・・・。

「どうする、戻るか?」

ねんざ場合、その時は大したことがなくても、後で腫れて痛んで来ることがあるので、今のうちにここから引き返すのも手である。

「いいえ、幸い痛みも大したことがないからもう少し歩いてみるわ! どうせ周回コースだし。」

確かに、園内随一の展望を誇る「展望湿原」の展望台まではもう30分ほどである。

それで、取りあえず「展望湿原」の展望台まで行ってみることにした。

最後の急な坂道を登って、ようやく展望台に到着。

しかしそこから見えるのは湿原だけで、その湿原の彼方に見えるはずの白馬連山の峰々は雲に覆われて全く見えなかった。

展望台には先着の男性が一人いたが、彼によると

「実は、昨日もここに来たのですが、全然見えなくて残念だったので、今日もう一度早い時間に来てみたのです。しかし今日も駄目のようですね。晴れると本当に景色の素晴らしいところなのですが・・・。

でも、昨日は下の湿原からも白馬連山が全然見えなかったけれど、今日は途中まではよく見えたから、良しとしますか。」

ということである。

展望台からの帰り道は、ゆっくりと時間をかけて高原植物を眺めながら歩いた。

途中で振り返っても、朝方にはあれほどくっきりと見えていた白馬の峰々はもう既に雲に覆われて全く見えなかった。

自然園を後にし、再びロープウェイとゴンドラを乗り継いで「栂池高原駅」に戻っても美和子さんの足の方はなんとか大丈夫そうである。

それで、最初の予定どおりバスで「白馬いわたけ ゆりの園」というところを訪れることにした。

ここは山の斜面を利用した、

「15,000坪という広大な敷地に、50余種、50万株ものゆりが咲き誇る。」

という場所であるが、さすがに8月の中旬ともなると盛りを過ぎたゆりも多かったが、一度にこれだけ沢山の色とりどりのゆりの花を目にする機会はもう2度とないだろうと思った。

ゆりは咲き誇っている時の色の鮮やかさと、枯れ出して花が茶色くなり出した時との美醜のコントラストが際立った花である。

ゆり園からはバスで、この日の宿泊先である八方の温泉宿に向った。

ところが夕方旅館に着いた頃から、美和子さんの足の腫れがひどくなり出し、痛みも増してきたようである。

次の日は「八方尾根」を歩くことにしていたのだが、この足の調子ではそれは無理のようである。

話し合いの末、とにかく「八方尾根」歩きの中止だけを決定して、

「後は次の朝起きた時の足の調子でどうするか決める。」

と言うことになった。

しかし、翌朝になっても美和子さんの足の腫れはかえってひどくなったようである。

一番良いのはすぐに東京に帰る事なのだが、ワシ達が指定席を取っている帰りの「あずさ」は、松本発が夕方6時台である。

この季節にそれ以前の時間の「あずさ」に空席があるとは思えないので、それまでの時間をどう過ごすかが問題である。

旅館に午後までいさせて貰うと言う方法もあったが、

「旅館の部屋でオリンピックを見ているくらいなら、いっそのこと松本まで出て、映画を見るなり、近くの立寄り湯にでも行った方がましだ。」

ということになり、白馬駅発朝10時の普通電車に乗り松本に向うことになった。

指定席はないので、美和子さんの座席を確保するために早めに駅に向った。

それで、駅で時間があったので念のために松本から新宿までの空席の有無を調べて貰ったところ、この駅を10時発の列車が松本に着いた10数分後に松本を出る「あずさ」に空席があることが判明した。

「捨てる神あれば、拾う神あり!」

である。

美和子さんも、足の痛みを我慢しながら見たくもない映画を見るよりも、一刻も早く家に帰りたがっていたので、早速その席を確保した。

結局、松本乗換で2時半頃には新宿駅に着き、美和子さんはそこからタクシーで近所の医者に直行である。

医者の診断では、

「靱帯が伸びたかもしれないので、回復までには時間がかかる恐れがある。」

と言うものであった。

しかし彼女は、昨日・今日と驚異的な回復力を見せて、明日からの店の営業は問題がなさそうである。

美和子さんはワシに対して、自分の不注意の事故で旅行の計画が狂ったことを盛んに申し訳ながっていたが、本当に残念なのはワシより彼女であろう。

何故なら、いつものように旅行の計画を立てて旅館を予約したり、切符の手配をしたりしたのは全て彼女だったので、自分の行きたかったところに行けなかったばかりか、痛い思いまでしたのに、自分のせいなので文句ひとつ言えないのは可哀相なことである。

まあ、いつか雪辱の機会が巡ってくるかもしれないが、今は1日も早く彼女の足が回復することを祈るのみである。

何はともあれ、今日で夏休みは終わりで、明日からは「蔵人」の営業再開である。

   歌舞伎町の映画館にライバル出現・・・8月3日

7月19日(土)に、「靖国通り」の旧新宿松竹会館の跡地に、延べ床面積9,811平方メートル、10スクリーン、2,237席という都心最大規模のシネコン「新宿ピカデリー」がオープンした。

このシネコンは年間150万人の動員を目指すそうであるが、現在の歌舞伎町の「シネシティ広場」(旧噴水後)周辺の映画館街の動員力は約200万人(売上26億)と言われている。

しかし、「新宿ピカデリー」のオープンや今年の年末にコマ劇場と東宝会館の閉鎖により「プラザ劇場」と「コマ東宝」の両映画館がなくなることなどを考慮すると、来年の歌舞伎町の映画館街の動員数は半減する恐れもあるのである。

100万人の来場者の減少は歌舞伎町にとっては大打撃であるが、これを映画館の売上収入のみで見てみると、売上が半減したとした場合の減少額は約13億円である。

あるブログには、

「13億という数字、大きなキャバクラなら一軒で賄ってしまう数字でもあるというのが現実。」

とあったが、月に1億円もの売上のあるキャバクラがあるのかどうかは知らないが、月に5・6千万円の店でいっても2件分である。

この計算でいくと、来年度の歌舞伎町の映画館街の売上が半減したとしても、その金額は大規模なキャバクラ2・3店分なのである。

要するに、歌舞伎町に10数店ある映画館を単に売上げ面から見るとその程度のものであり、映画館というのは見た目の大きさほど売上金額は大きくないのである。

ただし、その映画館の集客力には侮れないものがある。

繁華街にある映画館以外の施設で、年間100万人単位の人間を集客出来る施設はそう多くはない。

映画を見に来た人の中には、歌舞伎町で飲食をする人も大勢いるわけなので、映画館をただ映画館独自の売上高だけで計る事は出来ない。

歌舞伎町の代名詞とも言うべき「コマ劇場」の年内一杯での閉館宣言、そして今回の「シネシティ」周辺の歌舞伎町映画館街のライバルとも言うべき新宿3丁目のシネコン「新宿ピカデリー」のオープン。

今後の歌舞伎町は一体どうなっていくのだろうか?

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