過去の「ひとり言」17
 
(2008年3月〜2008年11月

    2,008年

   コマ劇場の閉鎖まで後1ヶ月・・・11月30日

昭和31年(1956年)のオープン以来、50年以上にわたって「歌舞伎町のシンボル」的存在であったコマ劇場も閉鎖まで残すところ後1ヶ月となった。

コマ劇場の隣の東宝会館ビルの方も3月をメドに閉館の予定で、テナント問題が解決すればコマ劇場は来年の1月くらいから、東宝会館の方は来年の3月以降に取り壊し工事が始まる予定である。

土地の所有者である東宝としては、現在二つの建物(コマ劇場と新宿東宝会館)の建っている土地を合わせてその上に一つの建物を建てるというものであるが、跡地には「高層ビルが建つ」とかの噂があるが、現時点では、

「何にも決まっていない。解体期間中に、若干猶予期間があるのでその間に決めよう、だから何ができるか決まらないまま壊し始めてしまうというのが現実。東宝としては、劇場・アミューズメント・映画館・パチンコ店・ギャンブル、これは一切入れないというのが基本的な考え方として持っている。」(「歌舞伎町るねっさんすBlog」よりの引用)

と言うのが現状であるようである。

何故このように新たなビルのコンセプトも決まらないままにコマ劇場が閉鎖される事態になってしまったかと言うと、何年も前から「シネシティ広場」周辺に映画館を所有する4社(東宝、東急レクリエーション、ヒューマックスシネマ、東亜興行)が作る四葉会という組織が、共同で再開発を行う構想を掲げて話し合いを続けてきたが、各社がそれぞれの事情を抱えていて一向に再開発構想が進まないので、「どうやら資金的に余裕がある東宝側がしびれを切らし、赤字続きのコマ劇場を閉鎖する事によって事態の打開を計った」、と言うのが真相のようである。

「東宝のざっくりの計画だと、オフィス、ホテル、物販、飲食、こういったところの複合ビルという表現をしていた。」(同じく「歌舞伎町るねっさんすBlog」よりの引用)と言うことであるが、ホテルや劇場や商業施設やオフィスなどが入った大阪の阪急茶屋町ビルディング(アプローズタワー)と歌舞伎町では、立地条件が余りにも違うのである。

果たしてコマ劇場跡のあの場所に出来たビルに、一体どのようなホテルやオフィスが入ると言うのだろう。

アプローズタワーに入っている「ホテル阪急インターナショナル」のような高級ホテルを、飲食店やFUZOKU店が密集し、周辺に客引きやホスト達がうろついている歌舞伎町のど真ん中に作ったところで、好んで泊まる人がいるとは思えないし、好んで歌舞伎町のビルにオフィスを構えたがるまともな会社があるとは思えないのである。(まあ、ヤクザがステータスとして組事務所を構えると言うことはありえるかもしれないが。)

また同じ理由で、物販や飲食と言ったところで西口や南口のビルに出店しているような有名ブランドの店やそれなりのレベルのレストランなどが入居するとも思えないのである。

それと同時に、コマ劇場が取り壊され新たなビルが建設されるまでの間の工事中の仮囲いの問題もある。

普通の工事現場のような味も素っ気もない仮囲いが歌舞伎町の中心部を覆っている姿を想像しただけでも、寒々とした気がしてくるし、治安上の問題もあるので、仮囲いの壁面にペインティングを施したり写真を張るなり、照明を工夫するなどして、出来るだけ明るい雰囲気にしなければ、工事期間中にコマ劇場周辺のイメージが暗くなってしまう恐れがあるし、劇場周辺の飲食店等への影響も大である。

何なら、いっそのこと仮囲を高くして今のコマ劇場の写真でも貼り付けて、それをライトアップしてみたらどうだろうか?

どうせ公演のない時のコマ劇場は中に入れるわけでもないので、立体感さえ出せれば写真でも同じようなものであろう。

いずれにしても、コマ劇場の閉鎖後の問題は、歌舞伎町全体にとって、現在もっとも大きな問題である。

尚、現在のコマ劇場はロックミュージカル「WE WILL ROCK YOU」の上演のために2005年に外装を改装それたのだが、下に改装前と改装後のコマ劇場の写真を載せておく事にする。

 

   年賀状・・・11月24日

今年も喪中の葉書がチラホラと届く季節になったが、昨年はワシの父親が亡くなったのでワシ自身が喪中葉書を出す方であった。

最近の若者達の中には、

「年賀状のような面倒なものは出さずに、メールで済ます。」

と言う人も多く、ここ数年は年賀葉書の発行枚数は減る一方であるらしいが、それでも今年も40億枚程度は発行されるらしい。

昨年自分が喪中の葉書を出してみて分かったことだが、学生時代からの友人や古くからの知人達の中には、それこそ10年以上会っていない人間も数多くいるのだが、それでも毎年それらの人々から年賀状が届くと、

「ああ、彼も元気でやっているのだな!」

と思って安心したりするのだが、今年の正月はそれがなかったので少し寂しい思いをしたのである。

若い世代の人間に言わせれば、

「相手が元気でやっているかどうかなんて、メールでも出せばすぐに分かることなのに。」

と言うことになるのだろうが、普段からメールのやりとりをしている相手ならともかく、何年も顔も会わさず年賀状のやりとりをするだけの相手に、いきなりメールを出して、

「元気でやってますか?」

と聞くのも何か変な気がするのである。

とは言いつつも、ワシは非常に悪筆な為に、割合早い時期から年賀状の宛名書きにはパソコンを使っていて、これはこれで便利なのだが、 一枚一枚手書きで宛名を書いて送ってくれる人々に対しては後ろめたい気がするのである。

それに、手書きの時代のように、相手の住所を書きながら、

「あいつも東京を離れて長くたつなあ!」

とか、

「この**町というのはどんなところなんだろう?」

と言う風に考える事も無くなってしまった。

と言うことで、今夜はそろそろ年賀状の準備として住所録の整理でもしておくことにしよう。

   首相の読み違い・・・11月17日

いつの間にか今年も残すところ1ヶ月半になってしまったが、このところ年々月日の経つのが早く感じられるようになってきている。

今年の正月に京都に行ったのが、ついこの間のような気がしているうちに、もうすぐ年末である。

1年でさえもそうなのだから、1ヶ月、1週間などはそれこそ「アッ」という間に過ぎてしまう感じである。

ところで、最近「未曽有(みぞう)」を「みぞうゆう」と読んだり、「頻繁(ひんぱん)」を「煩雑(はんざつ)」と間違えたり、「踏襲(とうしゅう)」を「ふしゅう」と誤読するなど、麻生首相の相次ぐ漢字の誤読ぶりがマスコミにも取り上げられているが、答弁や原稿を作製する事務方も、

「いかに愛読書がマンガの首相でも、さすがにこのくらいの漢字は読めるだろう。」

との判断からルビを振らなかったのかも知れないが、これからは彼の読む原稿には出来るだけルビを振った方が無難であろう。

麻生首相は、それ等の誤読に対する記者団の質問に対して、

「んーそうですか。単なる読み間違い。もしくは勘違い、はい」

と答えているらしいが、さすがに愛読書がマンガであると言って憚らない人間だけのことはあって、間違えて恥ずかしいと言う感覚が欠如しているようである。

これまでの数々の失言問題からしても、麻生首相に知性や教養を求めるのは無理だとしても、せめて最低限の羞恥心くらいは持っていて欲しいとの思いも今回のことで打ち砕かれたわけである。(そもそも政治家に羞恥心などを求めるのが無理なことなのかもしれないが・・・。)

まあ、漢字の読み違いは誰にでもあり得ることなので、総理大臣が漢字の読み間違いをしたからと言って、国民の生活に直接響くことは無いと思うが、経済や政治や外交の現状や将来の読み違いは国民生活に非常に大きな影響を与えるので、「単なる読み間違い。」では済まないことを首相には充分心して欲しいものである。

   ブックファーストに行ってきました・・・11月9日

前回のこのページに、「何となく不自然な」というタイトルで、航空自衛隊トップであった田母神(たもがみ)俊雄・前航空幕僚長の懸賞論文の最優秀賞受賞騒ぎの事を書いたが、その後の報道で、

「懸賞論文を主催したアパグループの元谷外志雄代表とは10年来の親交があった。元谷氏の出版パーティーに出席するなど、その親密ぶりは関係者の間では有名だった。 」

とか、

「防衛省は7日、新たに16人の航空自衛隊員がアパグループの同じ懸賞論文に投稿していたことを明らかにした。これで空自からの投稿者は94人となり、投稿者全体の4割を占める。」

「アパグループの懸賞論文に投稿していた空自の大半が、田母神氏が以前トップを務めた小松基地(石川県小松市)の所属。アパグループ代表の元谷外志雄氏は『小松基地金沢友の会』の会長だった。」

という事実が次々に明らかになるにつれ、ワシが感じていた不自然さや、

「今回の騒動が一種の出来レースのような気がしてくるのである。」

という思いも、あながち外れてはいなかったということが証明されたように思うのである。

制服組のトップクラスにある人間からしてこれでは、シビリアンコントロールも糞もないであろう。

ところで、新宿駅西口の「コクーンタワービル」に11月6日にオープンした「ブックファースト新宿店」に、オープン当日にさっそく行ってみた。

この書店は、コクーンタワーの1階・B1・B2の3フロアー(1,090坪)を占める大規模店で、書籍・雑誌約90万冊を取り揃えている、という謳い文句であったが、実際には、1階はカフェやギャラリーやインターネットコーナーなどがあるだけで、実質的な書店としてのスペースは地下1階・2階だけである。

ブックファーストのホームページでは、

「地下1階・地下2階には、1つの書店の中にありながらまるで7つの専門書店を歩き回っているかのような空間的なおもしろさ。」

という風に紹介されているが、ビルの構造のせいか、ひとつのコーナーから別のコーナーに移動するのに、いちいち一旦店外に出て、再度別の入口から入り直さなければならなかったり、さして大きくない書棚が視界を塞ぐように置かれている場所があったりと、新宿の「ジュンク堂」のすっきりとしたレイアウトと大型の書棚を見慣れた目には、慣れないせいもあるだろうが、まるでスーパーマーケットに紛れ込んだような雑然とした感じがした。

また、幾つかの専門書のコーナーも見て歩いたが、専門書も充実しているとは言い難い状況である。

ただ、、洋雑誌・地方タウン誌をはじめ資料価値の高いバックナンバーの品揃えも充実させ、5,000 種類もの雑誌が並んだ「T O K Y O M a g a z i n e C e n t e r」のコーナーは、一見の価値ありである。

ワシとしては、本屋に求めるのは天井に剥き出しの配管を通すなどといったデザイン的な面白さではなく、あくまで

「在庫点数が多くて、なおかつ欲しい本が探しやすい。」

という一点である。

ただし、この書店はワシが家から店まで歩いてくる途中にあるために、今後もこの書店に立寄ることは多くなりそうである。

   何となく不自然な・・・11月3日

先日、航空自衛隊トップの田母神(たもがみ)俊雄・航空幕僚長(60)が、

「我が国が侵略国家だったというのはぬれぎぬ。」

「我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者。」

と主張する論文を書き、民間企業が主催した懸賞論文に応募し、最優秀賞を授賞していた事が発覚した。

彼の論文は、旧満州・朝鮮半島の植民地化や第2次大戦での日本の役割を一貫して正当化し、集団的自衛権の行使を禁じる現行憲法に疑問を呈しているものであり、いわば政府見解を否定する内容で、彼は早速31日に更迭され、結局11月3日付けで定年退職をした。

もちろん、誰がどのような意見や見解を持とうとも自由であるが、さすがに航空自衛隊のトップたる者が、例え民間の懸賞論文に応募という形を取ったとしても、このような内容の論文を公表すれば更迭されるのは致し方ないであろう。

それにしても、田母神氏が応募したのが、経営するホテルとマンションが一連の耐震偽装問題でも話題となった企業であるアパグループが今年5月に創設したばかりの、第1回『「真の近現代史観」懸賞論文なるものであり、その審査委員長が名うての右翼的歴史観の持ち主の上智大名誉教授の渡部昇一氏であるというのが気に掛かるのである。

航空自衛隊のトップたるものが、今年5月におよそこのような「近現代史」に無縁そうな企業によって創設されたばかりの懸賞論文に、応募すること自体が何となく不自然な気がするのである。

もし今回の受賞者が田母神氏のような人物でなかったら、この懸賞論文の事が話題に上がることすら無かったであろうと思われる程度の賞である。

ところがそこに、渡部昇一氏が絡めば、何となく全体の構図が見えてくるような気がするのである。

田母神氏がその後も、論文に書かれた政府見解を否定する内容について、

「誤っているとは思わない。政府見解は検証されるべきだ」

との主張を繰り返しているのを見るにつけ、今回の騒動が一種の出来レースのような気がしてくるのである。

最近の若者達には渡辺氏流の歴史観に同調する者も少なくなく、今回の田母神氏のようなケースも、そのような人々にとっては一種英雄的な行為に映るのかもしれないが、今回の騒動がアジアの国々の人々との友好にとってマイナスである事は確かである。

   新宿プラザ劇場の閉館・・・10月26日

「コマ劇場」は今年一杯での閉館が決定しているが、コマ劇場と同時に再開発が予定されている隣の「東宝会館ビル」にある、1000席を超える客席数を誇る名門映画館「新宿プラザ劇場」が10月31日をもって閉館することが決定している。

1969年11月に1,044席を誇る日本を代表する映画館としてオープンしたこの劇場は、大画面での迫力を存分に楽しめる劇場で、日本では唯一「スターウォーズ」6部作全てを興行した映画館であり、また1997年12月に公開した「タイタニック」においては26万6千人という一興行での動員記録を樹立した、まさに歌舞伎町を代表する映画館である。

ワシもこの映画館では数多くの映画を観てきたが、このページを読んでいる人々の中にも、この劇場で映画を観たことのある人も多いはずである。

赤い絨毯を敷き詰めた広いロビーは、今のシネコンにはない老舗大劇場の風格のようなものが漂っていて、

「超大作を観るならこの劇場で!」

と決めていた固定フファンも多い劇場であった。

このような映画館が閉館するのは残念ではあるが、これも時代の流れであろう。

尚、「新宿プラザ劇場」では、閉館後の11月1日(土)〜11月7日(金)に長年のファンに感謝の気持ちを込めて、歴史的な名作を1000円均一で上映する予定である。

日時 
1日(土)
2日(日)
3日(月)
4日(火) 
上映作品 
ベン・ハー
2001年
宇宙の旅
ゴッド・ファーザーPartT
ゴッド・ファーザーPartU&PartV 
日時 
5日(水)
6日(木) 
7日(金)
 
上映作品 
トップガン
サウンド・オブ・
ミュージック 
タイタニック
 


その他未確認情報ではあるが、「シネシティ」周辺の映画館街では、

「新宿ミラノが来年夏以降の上映映画のフィルムの手配を行なっていない。」

との噂もあり、歌舞伎町の映画館街が一体どうなっていくのかが不安視されているのが実情である。

   近々新宿西口に大規模書店がオープン・・・10月19日

最近新宿の西口を訪れたことのある人なら、駅の正面に建つ右の写真のような斬新なデザインのビルを目にした人も多いと思う。

写真のビルは、「モード学園コクーンタワー」という地上50階、地下4階、最高部203.65メートル、巨大な高層建築物で、東京モード学園(新宿区)が2006年に建設を開始した建物で、設計は都庁などを設計した丹下都市建築設計が担当したビルである。

ワシは、家から歩いてくる途中でこのビルの近くを取るので、ビルのこと自体は着工当時から知っているが、せいぜい

「こんな巨大なビルを建てるなんて、専門学校というのは儲かるのだな。」

というくらいの認識で工事が進むのを眺めてきたのだが、最近になって、このビルの中に大型の書店が入ることになったと知って少々興味がわいてきた。

この書店は「ブックファースト新宿店」で、「コクーンタワー」の1階・B1・B2の3フロアー(1,090坪)を占める大規模店で、書籍・雑誌約90万冊を取り揃え、11月16日にオープン予定である。

この規模は、三越の7・8階当時(現在は6階も)のジュンク堂クラスの規模で、西口周辺では他を圧倒するスケールの大規模書店である。

これまで、西口周辺の高層ビルに勤めるサラリーマンやOLの人達は、大規模な書店へ行くのなら、東口の紀伊国屋本店やジュンク堂か、もしくは紀伊国屋新宿南口店まで行かなくてはならなかったのが、「ブックファースト新宿店」のオープンにより、場合によってはその必要がなくなるのであるから、それらの書店や小田急の10階にある三省堂なども含め、迎え撃つ方もなかなか大変なことであろう。

また一説によると、

「昨年10月に閉店した渋谷店の名物コーナー「TOKYO Magazine Center」を復活させ、資料価値の高いバックナンバーなど約5,000種類の雑誌を取りそろえる。」

との噂もあり、本好きなワシとしては興味津々である。

と同時に、大規模書店の華々しいオープンの陰で、若者の活字離れが言われるなか、この10年間で全国の書店数が6000店減って、1997年には2万3千店以上あった書店が、今や1万7千店程度まで減っている現状のあることも忘れてはいけないと思うのである。

   とりあえずビール・・・10月13日

先週は僅か3日間で日経平均株価が29%も下落し、10日間では32%の下落率でした。

僅か2ヶ月前には1万3千円だった平均株価が、連休に入る直前には8100円くらいまで下がったのですから、新聞やテレビではまるで大恐慌の再来のような騒ぎ方なのも仕方がないのかもしれません。

「蔵人」のお客さんでも、株式投資をやっている人はもちろん、そうでない人でも会社の社員持株会などで自社株を買っていたり、投資信託を買っていたりと、それなりに今回の株価下落の影響を受けていたり、また今後の実物経済への影響を考えると、グラスを口に運びながらも、ため息のひとつも出てくるのは仕方がないことだろう。

外資系ファンドが演出した都心の土地のバブルは、彼等が撤退し始めた後は崩壊しはじめ、今やその崩壊は誰の目にも明らかになってきている。

不動産関係の会社の中には、投資目的で高額のマンションなどを抱え込んでいるところも多いようだが、今後はどうなっていくのだろうか。

このように、世の中が不景気になってゆくと、飲食業界も当然その影響を受けるわけで、先日テレビのインタビューに答えていた新橋あたりのサラリーマンは、

「節約のために、先ずは『とりあえずビール』を注文するのを止める。」

と答えていたが、今の若者の間では、この「とりあえずビール」と言う習慣自体がなくなってしまっているそうである。

かつて「蔵人」によく来ていた日本語の堪能なアメリカ人のお客は、どこの店に行ってもよく耳にする「とりあえずビール」の「とりあえず」を、長い間ビール会社の名前だと思っていたそうである。

株価の方は、日本が休日であった今日、

「欧州各国の株式相場は、前週末の終値から大幅に値を上げて始まった。」

そうであるが、今週の日本の株価の方はいかなる事になる事やら・・・。

   金融救済法案・・・10月6日

最大7千億ドル(約75兆円)の公的資金を投じて金融機関が抱える不良債権を政府が買い取るという「金融救済法案」が、ようやく下院で可決され成立したが、当初下院で法案が否決されたのは、

「これまで巨額の利益を上げてきた民間の金融機関が、損失を出したからといって何故不良債権を巨額の税金を使ってまで買い取る必要があるのか?」

と言う思いの人々が多かったからであろう。

確かに、米フォーブス誌が毎年行っている「米大企業のCEO報酬ランキング」によれば、金融大手のCEOの2007年の報酬額(給与、ボーナス、権利が確定した株式供与、行使されたストックオプションなどの合計金額)は以下のようになっている。

〈2007年のCEO報酬〉

・カントリーワイド/113億1240万円
・ゴールドマン・サックス/81億920万円
・リーマン・ブラザーズ/79億900万円
・JPモルガン・チェース/22億7480万円
・バンク・オブ・アメリカ/22億1430万円
・モルガン・スタンレー/19億4150万円

リーマンブラザーズを破綻に追いやったリチャード・ファルドCEOなどは、

僅か1年ほど前の記事であるが10数年もCEOとして君臨し、毎年数十億円の報酬を手にしてきたのである。

また、CEOだけではなく一般の金融機関の社員達の中にも、他の業種の労働者からすれば考えられない程巨額の報酬を得ていた人間も数多くいるのである。

サブプライム問題が顕在化し、金融機関の抱える損失がうなぎ登りに巨大化してみて分かったことは、彼等がやっていたことは投資と言うよりも、一旦住宅の価格が下がり出すと途方もない損失を抱えることが明らかな、一種のギャンブルのようなものであったと言うことである。

そして、それらのリスクを含んだ金融商品は様々に形を変えアメリカ国外の金融機関にも大量に保有されていたために、アメリカ発の金融危機は欧州を初めとして、世界各国の金融機関を巻き込んで行ったのである。

何故金融や投資の専門家である金融機関が、このような愚かな行為を演じることになったかというと、全ての前提に

「住宅(土地)の価格は永遠に下がらない。」

と言う、かつてどこかの国でも信じられていた、いずれは破綻する根拠のない神話が信じられていたからである。

一度住宅の価格が下がり出すと、どういう事態が出現するかは関係者達にはある程度分かり切っていたはずである。

それすら分からないで数十億の報酬を貰っていたのなら詐欺士のようなものであり、それが分かっていながら、それに対してなんら対策を講じていなかったのなら、経営者とは言えないであろう。

それ等の事態に対しての準備をするよりも、目先のギャンブル的な投資にうつつを抜かしていたのは、先のことより今この瞬間に出来るだけの利益を上げることのみがCEO達自らが高額の報酬を手に入れる唯一の方法であると言う、アメリカ型の経営方法に問題があったのではないだろうか。

また、今回1度は否決された「金融安定化法案」をまとめたポールソン財務長官は、ゴールドマン・サックスの前CEOである。

要するに彼もかつては高額の報酬を得ていたクチである。

それらを含めてCEOの報酬一覧を眺めていると、今回の騒動は、何やら官民一体となった民から官への損失移転の茶番劇じみて見えてくるのである。

   船出早々バタバタと・・・9月28日

「成田空港は『ごね得』」、「日本は単一民族」、「日教組批判発言」の失言(?)3連発の中山国土交通大臣は、麻生首相に辞表を提出して受理されたようだが、彼は「日教組の強いところは学力が低い」との発言に関しては撤回せず、改めて「日教組をぶっ壊せ」との発言を繰り返している。

彼がかつて文部科学大臣であった頃に、日教組との間で何があったのかは知らないが、そもそも「国土交通大臣」としての会見の場で、『日教組の強いところは学力が低い』などという管轄外の話を持ち出すことの自体が余計なことだし、

「私がなぜ全国学力テストを提唱したかといえば、日教組の強いところは学力が低いんじゃないかと思ったから。現にそうだよ。」

と言う発言に至っては単なる「日教組憎さ」以外の何ものをも表していないであろう。

それにしても、もしこの発言の内容が本当だとしたら、「全国学力テスト」なるものは、一大臣の単なる思い込みを立証するために莫大な予算をつぎ込んで導入されたと言うことになる。

こんな事を自慢げに話す人間とは、一体どのような教育を受けてきた人間なのだろうか?

彼の発言は文部科学相時代にも何度か問題になったし、彼の任命権者である麻生首相自身も、政調会長時代の2003年に、東京大学での講演において、

「『創氏改名』は朝鮮の人々が満州で仕事がしにくかったから、名字をくれといったのがそもそもの始まりだ」

との発言で物議を醸し出した事もある人物で、この発言は今回の首相就任の際にも、韓国のマスコミ各紙で批判されている。

これは人から聞いた話で真偽は不明なのだが、麻生太郎はかつて、

「日本と中国は、聖徳太子の時代から仲が悪かったのだから、仲良くできるわけがない。」

と言ったそうである。

歴史も成田問題も、中途半端に知るくらい恐ろしいことはないのである。

いずれにしても、船出早々、早くもバタバタしている「麻生丸」である。

P.S・・・小泉元首相が引退を表明!

「おー、日本の政治家にしては退き際が見事だな!」

次男を後継者に指名。

「なーんや。結局はそういうことか!」

   風邪をこじらせたようだ・・・9月23日

先日ひいた風邪を、どうやらこじらせてしまったらしい。

昨日も相変わらず鼻はグジュグジュで身体もだるかったが、本日に至っても症状は余り改善していない。

そうは言っても、日曜日を棒に振ってしまった為に、やらなければならない作業が溜まっているので、仕方なく起きてパソコンに向って、取りあえずメールをチェックしようとメールソフトを立ち上げたのだが、そんな折もおり、ワシが借りているサーバーの方のメールサーバーに接続出来ないのである。

プロバイダの方のメールの方は問題なくチェック出来るので、

「多分サーバーの方に問題が起こっているのだろう。」

と思い、「蔵人」のホームページにアクセスしてみたが、案の定接続出来なかった。

サーバー会社に電話で問い合せてみたが、今日は祭日の為に、留守電の目セージが流れていた。

休日を利用してサーバーのメインテナンスを行なっているくらいなら、数時間もすれば復旧するだろうから、メールのチェックやホームページの更新などの作業はそれからでも良いのだが、問題はサーバーの方に大きな問題が生じている場合は、暫くの間メールがチェック出来ないし(メールを出すだけなら、プロバイダのアドレスの方で可能である。)、ホームページもその間見られないし、更新も不可能になるのである。

先日も知り合いが、

「パソコンがクラッシュして、データが飛んでしまって困っている。」

と言っていたが、パソコンのトラブルは、

「そろそろ、データのバックアップを取っておかなくては。」

と思いだした頃に起こることが多いようである。

ワシはパソコンを使い出した初期の頃に何度か痛い目にあっているので、割合マメにバックアップを取っている方であるし、ハードの方のトラブルに備えて、予備のノートパソコンでもインターネットやメールのチェック等は出来るようにはしてある。

まあ、今回のサーバーのトラブルが、復旧までにどのくらい時間がかかるかは分からないが、復旧し次第この文章をアップする予定である。

しかし、たったこれだけの文章を書いている間に、何度鼻をかんだことだろう。

頭は相変わらず「ボッ」としているし、風邪はこじらすとやっかいであるので、皆さんも気を付けて下さい。

P.S・・・上の文章を書いてから数時間後に、サーバーが復旧したようなので、無事にアップ出来ました。

   風邪をひいてしまった・・・9月21日

金曜日の夜くらいから、鼻がグシュグシュするし、少し寒気もするなと思っていたら、本格的に風邪をひいてしまったようである。

幸いなことに熱は余り出ないのだが、起きあがっても頭が「ボー」とした状態で、昨日の日曜日は一日中ベッドの中で過ごしてしまったので、日曜日の夜に更新することにしているこのページの更新が出来なかった。

現在時刻は、月曜日の午後2時過ぎであるが、まだ心身共に一向にすっきりとはしない。

まあ幸いなことに、今日一日店に出れば明日は祭日で店は休みなので、何とか今日一日頑張って見ることにする。

明日、風邪が治っていたら、改めて「ひとり言」を書くつもりである。

   H氏の笑顔・・・9月15日

金曜日の夜の10時頃、秋田在住のH氏が奥様と一緒に突然店に顔を出して下さった。

H氏は2度の東京での単身赴任中、よく「蔵人」に顔を見せて下さっていたワシと同じ年のサラリーマンである。

とりわけ10年ほど前から5年ほど前にかけての2度目の東京生活では、西武新宿線沿いに住まれていたこともあって、一人でブラッと顔を見せて下さることが多かった。

H氏は昔は体操をやっていたというだけあって、小柄ながらも筋肉質の引き締まった体型で、山歩きが好きで、東京での単身赴任中もよく日帰りで近場の山に出掛けて、帰りがけに「蔵人」に顔を出して、はにかんだような笑顔を浮かべながら美味しそうにビールを飲んでその日の行った山のことなどを話して下さった。

そのH氏が「脳の方の病気で突然倒れられた。」、という話を人づてに聞いたのは昨年の11月のことである。

共通の知り合いが少ないために、その後入ってくるニュースは、

「春頃には退院されて、リハビリに励みながら取りあえず職場復帰を果たされたらしいが、まだまだ体調は完全ではなく、記憶の方も曖昧な状態が多い。」

という断片的なものであった。

病気の性格上、よほど奥様の方とも親しければ別だが、そうでない場合こちらから電話などで状態を問い合せにくいものである。

時折彼のホームページを覗いたりもしたのだが、倒れる前の状態のままで、更新された様子もないままであった。

それが、7月の20日過ぎにH氏から暑中見舞いが届き、取りあえず順調に回復に向われているようなので、それをきっかけにこちらの方からもメールを出してみたのである。

暑中見舞いをきっかけにH氏にメールを出した人も多いだろうし、再開された本人のホームページにも、

「パソコンで文章を打つのもひと苦労」

というようなことが書いてあったので、返信は期待していなかったが、それから2ヶ月弱。

まさか、何の前触れもなしにH氏が「蔵人」に顔を出してくれるとは、ワシ自身も思ってもいなかったのである。

H氏自身は、外見的には健康そうで肌の艶もいのだが、まだまだ記憶の混乱があったり、痛みがあったりでなかなか大変そうである。

それでも、倒れたのが丁度会社の人と一緒の時だったので、その人のお陰ですぐに病院に緊急入院して治療を受けられた事が幸いだったようである。(H氏はこの時も、単身赴任中だったのである。)

何でも今回は、新宿で行なわれた知り合いのオペラ公演を見るために上京したそうだが、ホテルは新橋なのにわざわざ、「心配をかけたから」と言うことで、奥様と一緒に「蔵人」に顔を見せて下さったのである。

有り難いことである。

「お酒は大丈夫なの?」

とワシが聞くと、

「せっかくの機会だから、少しだけなら。」

ということだったので、ジョッキではなくグラスに生ビールを入れてH氏と奥様にお出しした。

ワシはウーロン茶で、美和子さんは日本酒で、4人で再開を祝して「乾杯」。

H氏の顔一杯に笑顔が広がる。

僅か30分ほどの時間であったが、ワシはH氏の笑顔を見て少し「ホッ」とした。

もちろん、今日に至るまでの一年近くの闘病生活やリハビリ生活の大変さや、奥様のご苦労、そして将来に対する不安やこれからも続く闘病生活のことを考えると、大変なことは充分分かるのであるが、H氏が顔にあの笑顔を浮かべることが出来る限り、H氏は持ち前のガッツでそれらの苦難を乗り切ってくれるに違いないと思う次第である。

   沖縄返還「密約」問題・・・9月8日

9月1日の朝日新聞に、

「72年の沖縄返還に至る日米交渉の際の「密約」について、ジャーナリストや作家、学者らが2日、秘密合意を記した3書簡の情報公開を外務省と財務省に求める。この書簡はすでに米国立公文書館が公開し、日本側交渉責任者だった元外務省アメリカ局長も密約の事実を認めているが、日本政府は一貫してその存在を否定している。」

という記事が出ていた。

この密約は、

「1972年に沖縄が日本に返還される際に、本来はアメリカ側が負担すべき返還費用400万ドルを日米両国政府間の密約によって、日本政府が肩代わりした。」

事などを主な内容としているのであるが、記事にあるように、この密約の存在自体は後に公開されたアメリカ政府の外交文書で裏付けられているし、沖縄返還協定をめぐり、返還した土地の原状回復補償費を日本側が極秘に肩代わりしたとされる米側との「密約」の存在を、返還当時の外務省の北米局長であった吉野文六氏も既に2006年に、

「返還時に米国に支払った総額三億二千万ドルの中に原状回復費用四百万ドルが含まれていた」

と認めているのである。

02年6月に、日本側の肩代わりを「日米間の密約」と明記した米政府の文書が米国立公文書館で見つかり、密約の存在が改めて裏付けられたが、それにもかかわらず、

「原状回復の費用を日本側が負担するという密約は一切ない」

と述べたのは当時の福田康夫官房長官である。

その後も、現在に至るまで政府は一貫して沖縄返還時の「密約」の存在を全面否定続けているが、その理由のひとつには、一度「密約」の存在自体を認めてしまうと、「有事の際の日本への核持ち込みに関する密約」等にも触れなくてはいけなくなるからであろう

さて、我々の年代以上の人間なら記憶にあるであろうが、この密約問題は、当時の毎日新聞記者西山太吉氏が入手した裏付けとなる文書を元に野党議員が国会で政府を追及したが、その後この文書の入手先を巡り一種の男女スキャンダルのような低レベルな問題へとすり替えられてしまった「外務省機密漏洩事件」である。(この辺の問題に関しては、マスコミの姿勢にも大いに反省すべき点があると思うのである。)

その西山元記者は、

「数多くの沖縄密約は、単なる裏取引ではなく、国会の承認案件である条約案にウソを書いたり、あるいは国会に上程しないまま隠した国家的な犯罪だ。」

と述べているが、この種の密約が沖縄返還交渉の際にだけしか結ばれなかったという保証はない。

その後も日米間の交渉の際に、色々な種類の密約が結ばれた可能性もあるのである。

従って、この密約の存在が当時明らかになっていれば、その後の日米関係は今とはかなり変ったものになっていた可能性が大である。

そういった意味で、今回の情報公開の請求の動きと、日本政府の今後の対応(いつまで国民を馬鹿にし続けていられるのか)や、マスコミの動きを興味を持って見守っていきたいと思うのである。

   「能登の花ヨメ」・・・8月31日

最近は日曜日は家にいることが多いワシであるが、今日は夕方から新宿の「K’s CINEMA」という映画館に「能登の花ヨメ」という映画を観に行ってきた。

と言うのは、この映画の白羽弥仁監督が「蔵人」の長年のお客さんであるので、その縁で観に行ったのである。

実は、白羽監督にとってこの映画が第2作目の作品であるが、彼がデビュー作品である神戸を舞台にした「She's Rain」を撮ったのは1993年で、その頃は確か彼も20代の青年であったはずである。

あれから15年の歳月が流れ、かつては高校生の恋物語を描いた青年監督が、今や立派な中年監督として能登半島を舞台に嫁と姑の関係を軸にした作品を撮ったのである。

この間幾つもの企画が立てられながら、色々な理由でその企画が実らず、15年もの歳月が流れたわけであるが、その間、白羽監督の映画に賭ける情熱は些かも衰えることはなかった事が、今回の作品につながったのである。

映画、「能登の花ヨメ」に関する詳しい事は下記のサイトを御参照下さい。

  http://www.notonohanayome.com/


映画を見た後、今度はワシは「明治通り」の方にあるCSの某放送局を訪れた。

この放送局の社員の人々もよく「蔵人」に顔を出してくれるのであるが、実はこの放送局は毎年日本テレビの24時間テレビに対抗して同時期に24時間放送をやるのであるが、昨日と今日がその当日だったのである。

それでワシは、差し入れがてら彼等の職場を訪れてみたのである。

さすがにどのスタッフの顔にも疲れが浮かんでいたが、会社全体が熱気があふれていた。

放送局からの帰りに花園神社から「ゴールデン街」を抜けて帰ろうとしたら、「ゴールデン街」では丁度「納涼感謝祭」というのが行なわれていて、屋台が出たりライブが行なわれたりしていたので、しばらく「ゴールデン街」をブラブラしてみた。

以前まだワシが酒を飲んでいた頃は、店が終わってから「ゴールデン街」まで飲みに来ていたりしていたが、最近は滅多に来ることもなくなってしまっている。

もっとも、最近のゴールデン街は昔と違って健全なショットバー風の店が多く、客層もずいぶんと若返って来ているが、それらの店に挟まれるように、昔ながらの店の看板もまだ何枚かは掛かっていた。

もう少しブラブラしようと思っていたが、途中で雨が降り出してきたので家に帰ることにした。

このところ昼間は晴れていても夜になると激しい雷雨になる、という不順な天候が続いているが、毎晩のように降る激しい雨は「飲み屋泣かせ」である。

   平成も既に20年・・・8月24日

言うまでもなく、今年は平成20年である。

それで、今年の8月15日の終戦記念日に、

「平成になってからの長さが、昭和が始まってから終戦を迎えるまでの長さと同じになった。」

と言うことに、ふと気がついたのである。


ワシ自身が昭和史、とりわけ戦前の歴史に興味があるせいか、実際にその時代を生きたわけでもないのに、昭和元年から終戦までの間には随分色々な歴史的、社会的な出来事があったような気がするのだが、平成の方は実際にその時代を生きていながら、昭和に比べて印象に残る歴史的、社会的な出来事が少ない空疎な時代のような気がするのである。

例えて言うならば、昭和の方は、

「日本という国が、昭和元年から色々な出来事を経て、ようやく昭和20年の8月15日に至った。」

という感じなのだが、平成の方は、

「えー、もう今年で平成に入って20年も経つのか! ところで、この20年間って一体何があったんだっけ?」

と言う感じなのである。

それで、平成になってから起こった出来事を少し拾い出してみると、

平成元年(1989年) ベルリンの壁崩壊  

平成3年(1991年) 湾岸戦争勃発、ソ連崩壊

平成5年(1993年) 細川内閣発足により、自由民主党が野党に

平成7年(1995年) 阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件が発生。

平成9年(1997年) 香港返還

平成13年(2001年) アメリカで同時多発テロ発生、アメリカによるアフガン攻撃

平成15年(2003年) アメリカによるイラク侵攻

と言うふうに出来事自体はあるにはあるのだが、「阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件」は犠牲者の数も多くその衝撃は大きかったものの、昭和の「満州事変」や「原爆投下」などとは全く性格の違う出来事であるし、自民党の下野も、今となっては、

「そんな事もあったなあ。」

と言う程度である。

また、ベルリンの壁の崩壊やソ連邦の崩壊なども世界史的には大きな出来事であるが、日本がそれに大きく関わったと言うような出来事ではないし、アメリカによるアフガンやイランに対する攻撃に対しては、我が国はアメリカの政策を追認するのみである。

上記の出来事以外にも、例えば「郵政の民営化」や「防衛庁の防衛省への昇格」や、来年度から実施される「裁判員制度」の導入などもあるのだが、これらが我々の生活にどのような影響をもたらすのかは、もう少し時間が経たなければ分からない部分も多い。

平成という時代が空疎な時代なのかどうかは別にしても、国民にとって何が重要で、何が重要ではないのかが見えにくい時代になってきているのは、確かなような気がするのである。

   ワシの夏休み・・・8月14日

今年の夏休みは8月9日(5日)〜14日(木)までである。

最近は昔のように、休みの前日深夜まで店を営業して、ほとんど眠らずに休みの初日に旅行に出掛けるというような強行なスケジュールは避けて、出来るだけ1日休んでから旅行に出掛けるようになったが、今回も9日は家でウダウダして過ごした。

そして10日から12日まで2泊3日で美和子さんと長野県の白馬の方に行ってきた。

以下はその旅行記である。

8月10日

新宿駅発10時7分発の「あずさ55号」に乗り、14時6分に終点の白馬駅に到着。

次の日は朝早くから「栂池自然園」を歩く予定なので、この日の宿泊予定は「栂池自然園」のすぐ近くにある「栂池ヒュッテ」というところなのだが、そこに向う途中でちょっと寄り道をした。

と言うのは、この白馬のある小谷村は新潟県との県境にある長野県北部の山村であるが、江戸時代には日本海の塩や海産物などを運んだ千国街道と呼ばれる「塩の道」の中継地点にあたり、かつては背中に荷物を背負った牛と、それを引く牛方達が道中で一緒に寝泊まりするための牛方宿(うしかたやど)という宿屋が点在していたが、現在ではゴンドラ乗り場からほど近いところにある牛方宿が現存する唯一の牛方宿である。

そこで、その牛方宿を訪れる為に途中のバス停でバスを降りて、炎天下の山道を歩き出した。

30分程歩いて辿り着いた牛方宿は、19世紀初頭の建築で、間口6間、奥行10間ほどの茅葺きの建物である。

一階の入口近くに5・6頭の牛をつないでおけるスペースがあり、土間の上の中2階の牛を見下ろせる位置が牛方達の寝床になっていたようである。(建物の奥の方には、普通の旅人達を泊めるための客間もあった。)

何より嬉しかったのは入場料金の安さである。

一般300円、小・中学生100円であるが、残念ながらワシ達が行った時には他にお客はいなかった。

帰りは舗装道路の方を歩き、約40分ほどで「栂池自然園」に向うゴンドラの乗り場に辿り着いた。

ゴンドラ乗り場の「栂池高原駅」からは、ゴンドラとロープウェイを乗り継いで、全長5,320m、約26分間の空中散歩で一気に標高1,900mの世界に到着である。

「栂池ヒュッテ」にチェックインした後に、散歩がてら「栂池自然園」の入口まで行ってみた。

夕方の空に、杓子岳、白馬岳、小蓮華山等がくっきりと見えた。

明日の天気も良さそうで、楽しみである。

8月11日

午前5時起床。

朝6時半からの朝食もそこそに、早速「栂池植物園」に向う。

「栂池自然園」は白馬連山を間近に望む標高1900〜2000mの地点に広がる、約100ヘクタールの日本有数の規模の高層湿原で、園内には5.5Kmの遊歩道が整備されていて約3時間半で一周出来るようになっている。

それだけに人気も高く、夏場は混雑が予想されるので、ワシ達はゴンドラとロープウェイで下からの観光客が押しかける前に出発したくて、前夜わざわざ「自然園」の近くに宿を取ったのである。

昨日の夕方に来た「自然園」の入口近くからは、この日も白馬連山の峰々が朝日に映えていた。

見渡す限り、まだ園内にはほとんど人影がない。

早速、整備された木道の上を歩き出す。

「ミズバショウ湿原」、「ワタスゲ湿原」、「浮島湿原」と歩き1時間以上掛けて「ヤナセ尾根」分岐の手前まで来た時である。

「あ、痛い!」

ワシの少し後方を歩いていた美和子さんが突然叫んだ。


その声に振り返ってみると、美和子さんが転んでいた。

濡れた葉っぱか何かを踏んだ拍子に滑って転んだらしいのだが、悪いことにその際に左足を挫いたようである。

靴を脱いで調べてみると、くるぶしの下あたりに痛みがあるようだ。

湿布薬は常備しているので、美和子さんはそれを患部に貼り再び靴を履いてみた。

「歩けるか?」

と聞くと、

「大丈夫、痛みは大したことがないから歩けるわ!」

もっとも、こんなところで全然歩けないと言われても、ワシとしても困るのであるが・・・・。

「どうする、戻るか?」

ねんざ場合、その時は大したことがなくても、後で腫れて痛んで来ることがあるので、今のうちにここから引き返すのも手である。

「いいえ、幸い痛みも大したことがないからもう少し歩いてみるわ! どうせ周回コースだし。」

確かに、園内随一の展望を誇る「展望湿原」の展望台まではもう30分ほどである。

それで、取りあえず「展望湿原」の展望台まで行ってみることにした。

最後の急な坂道を登って、ようやく展望台に到着。

しかしそこから見えるのは湿原だけで、その湿原の彼方に見えるはずの白馬連山の峰々は雲に覆われて全く見えなかった。

展望台には先着の男性が一人いたが、彼によると

「実は、昨日もここに来たのですが、全然見えなくて残念だったので、今日もう一度早い時間に来てみたのです。しかし今日も駄目のようですね。晴れると本当に景色の素晴らしいところなのですが・・・。

でも、昨日は下の湿原からも白馬連山が全然見えなかったけれど、今日は途中まではよく見えたから、良しとしますか。」

ということである。

展望台からの帰り道は、ゆっくりと時間をかけて高原植物を眺めながら歩いた。

途中で振り返っても、朝方にはあれほどくっきりと見えていた白馬の峰々はもう既に雲に覆われて全く見えなかった。

自然園を後にし、再びロープウェイとゴンドラを乗り継いで「栂池高原駅」に戻っても美和子さんの足の方はなんとか大丈夫そうである。

それで、最初の予定どおりバスで「白馬いわたけ ゆりの園」というところを訪れることにした。

ここは山の斜面を利用した、

「15,000坪という広大な敷地に、50余種、50万株ものゆりが咲き誇る。」

という場所であるが、さすがに8月の中旬ともなると盛りを過ぎたゆりも多かったが、一度にこれだけ沢山の色とりどりのゆりの花を目にする機会はもう2度とないだろうと思った。

ゆりは咲き誇っている時の色の鮮やかさと、枯れ出して花が茶色くなり出した時との美醜のコントラストが際立った花である。

ゆり園からはバスで、この日の宿泊先である八方の温泉宿に向った。

ところが夕方旅館に着いた頃から、美和子さんの足の腫れがひどくなり出し、痛みも増してきたようである。

次の日は「八方尾根」を歩くことにしていたのだが、この足の調子ではそれは無理のようである。

話し合いの末、とにかく「八方尾根」歩きの中止だけを決定して、

「後は次の朝起きた時の足の調子でどうするか決める。」

と言うことになった。

しかし、翌朝になっても美和子さんの足の腫れはかえってひどくなったようである。

一番良いのはすぐに東京に帰る事なのだが、ワシ達が指定席を取っている帰りの「あずさ」は、松本発が夕方6時台である。

この季節にそれ以前の時間の「あずさ」に空席があるとは思えないので、それまでの時間をどう過ごすかが問題である。

旅館に午後までいさせて貰うと言う方法もあったが、

「旅館の部屋でオリンピックを見ているくらいなら、いっそのこと松本まで出て、映画を見るなり、近くの立寄り湯にでも行った方がましだ。」

ということになり、白馬駅発朝10時の普通電車に乗り松本に向うことになった。

指定席はないので、美和子さんの座席を確保するために早めに駅に向った。

それで、駅で時間があったので念のために松本から新宿までの空席の有無を調べて貰ったところ、この駅を10時発の列車が松本に着いた10数分後に松本を出る「あずさ」に空席があることが判明した。

「捨てる神あれば、拾う神あり!」

である。

美和子さんも、足の痛みを我慢しながら見たくもない映画を見るよりも、一刻も早く家に帰りたがっていたので、早速その席を確保した。

結局、松本乗換で2時半頃には新宿駅に着き、美和子さんはそこからタクシーで近所の医者に直行である。

医者の診断では、

「靱帯が伸びたかもしれないので、回復までには時間がかかる恐れがある。」

と言うものであった。

しかし彼女は、昨日・今日と驚異的な回復力を見せて、明日からの店の営業は問題がなさそうである。

美和子さんはワシに対して、自分の不注意の事故で旅行の計画が狂ったことを盛んに申し訳ながっていたが、本当に残念なのはワシより彼女であろう。

何故なら、いつものように旅行の計画を立てて旅館を予約したり、切符の手配をしたりしたのは全て彼女だったので、自分の行きたかったところに行けなかったばかりか、痛い思いまでしたのに、自分のせいなので文句ひとつ言えないのは可哀相なことである。

まあ、いつか雪辱の機会が巡ってくるかもしれないが、今は1日も早く彼女の足が回復することを祈るのみである。

何はともあれ、今日で夏休みは終わりで、明日からは「蔵人」の営業再開である。

   歌舞伎町の映画館にライバル出現・・・8月3日

7月19日(土)に、「靖国通り」の旧新宿松竹会館の跡地に、延べ床面積9,811平方メートル、10スクリーン、2,237席という都心最大規模のシネコン「新宿ピカデリー」がオープンした。

このシネコンは年間150万人の動員を目指すそうであるが、現在の歌舞伎町の「シネシティ広場」(旧噴水後)周辺の映画館街の動員力は約200万人(売上26億)と言われている。

しかし、「新宿ピカデリー」のオープンや今年の年末にコマ劇場と東宝会館の閉鎖により「プラザ劇場」と「コマ東宝」の両映画館がなくなることなどを考慮すると、来年の歌舞伎町の映画館街の動員数は半減する恐れもあるのである。

100万人の来場者の減少は歌舞伎町にとっては大打撃であるが、これを映画館の売上収入のみで見てみると、売上が半減したとした場合の減少額は約13億円である。

あるブログには、

「13億という数字、大きなキャバクラなら一軒で賄ってしまう数字でもあるというのが現実。」

とあったが、月に1億円もの売上のあるキャバクラがあるのかどうかは知らないが、月に5・6千万円の店でいっても2件分である。

この計算でいくと、来年度の歌舞伎町の映画館街の売上が半減したとしても、その金額は大規模なキャバクラ2・3店分なのである。

要するに、歌舞伎町に10数店ある映画館を単に売上げ面から見るとその程度のものであり、映画館というのは見た目の大きさほど売上金額は大きくないのである。

ただし、その映画館の集客力には侮れないものがある。

繁華街にある映画館以外の施設で、年間100万人単位の人間を集客出来る施設はそう多くはない。

映画を見に来た人の中には、歌舞伎町で飲食をする人も大勢いるわけなので、映画館をただ映画館独自の売上高だけで計る事は出来ない。

歌舞伎町の代名詞とも言うべき「コマ劇場」の年内一杯での閉館宣言、そして今回の「シネシティ」周辺の歌舞伎町映画館街のライバルとも言うべき新宿3丁目のシネコン「新宿ピカデリー」のオープン。

今後の歌舞伎町は一体どうなっていくのだろうか?

   早くも夏バテか?・・・7月27日

先週の連休が疲れを取るどころか、かえって疲れを溜め込む結果になったことは前回書いたが、それにしても暑い日々が続いている。

因みに、気象庁のホームページを見てみると今年の東京は7月12日に最高気温が30度を突破して以来、今日まで16日間連続して30度を超えているのである。

同じ期間で見ると、昨年は30度を超えたのが4日間、一昨年は7日間であることからも、この時期の今年の暑さの凄さが分かるであろう。

そのような暑い日々を、ワシの場合は日中に寝ているのであるから、寝ることによって疲れを取るどころか、かえって疲れが溜まってしまうのである。

もちろん、さすがのワシも寝る時にはクーラーをタイマー付きで付けておくのだが、タイマーが切れてしばらくすると、汗びっしょりになって目が覚めてしまうのである。

何しろ、ワシの部屋の窓には、光が入ってこないように厚めの遮光カーテンを取り付けてあるので、普通の部屋よりずっと暑くなるのである。

それだけでも毎日疲れるのに、ワシの場合は毎日もう一度汗びっしょりになるのである。

なぜなら、原則として毎日家から店まで歩いているからである。

家から店までは少し早足で歩くと約40分程なのであるが、いくら夕方とはいえ、さすがにこの季節に歩くと全身から汗が出尽くして、店に着く頃にはひからびて殆どミイラ状態である。(おまけに、最近は夏の旅行に向けて足慣らしのために登山靴を履いて歩いているのである。)

これだけでも充分身体に悪いのに、店の営業中ワシははクーラーの冷気の直撃を受けるのである。

「蔵人」の店内で、ワシが座っている辺りが一番クーラーの冷気が強く当たるところなのである。

しかし、クーラーの冷気を弱くすると他の席が暑くなるので、仕方なくワシはお客さん達のために日々身を犠牲にしてクーラーの冷気の直撃を受けているのである。

そんなわけで、今年は早くも夏バテなのか、何となく身体がだるいし食欲も余りないのである。

しかし、そうは言ってもまだ7月である。

今からこれでは、今年の夏は先が思いやられる。

「ハー、それにしてもクソ暑い!」

   父親の一周忌・・・7月21日

昨日・本日と、「蔵人」はゴールデンウイーク以来の2連休であった。

このところ急に暑くなって疲れが溜まっていたので、本来ならゆっくりと休みたいところであったが、本日は昨年の夏に亡くなった父親の一周忌と納骨があったので昨日から奈良の実家に帰っていた。

今日は実家で午前8時前に起きて、母親と美和子さんと3人で大阪の上本町と難波の間にある「下寺町」(したでらまち)と言うところまで出掛けてきた。

この「下寺町」と言うのは、江戸時代の初期に寺町が形成された地域で、現在でも下寺町一丁目から二丁目一帯は20余りもの寺院が軒を連ねている、全国でも珍しい地域であるが、ワシの実家の墓はその中の寺院のひとつにあるのである。

今日の大阪はクソ暑かったが、その暑さの中で、普段はネクタイすらしないワシが黒の礼服の上下を着て、昼前から行なわれた本堂での法要と、その後炎天下で行なわれた納骨の儀式に出席したのであるから、全身の毛穴という毛穴からから汗が噴き出して卒倒寸前であった。

しかし亡父の為に集まってくれた人々の前で、まさか息子のワシが倒れるわけにもいかないので、何とか踏ん張って無事に一連の儀式を乗り切ったのである。

その後は妹夫婦や姪達と難波に出たのであるが、毎年のように奈良の実家に帰っている割には大阪の街に出たのは随分久し振りであった。

実家が大阪にあった頃は、帰省の度に難波や梅田辺りに出掛けていたが、実家が奈良に越してからは古代史に興味を持ちだしたこともあって、もっぱら奈良や飛鳥等を訪れることが多くなり、大阪の街に出る機会は殆どなくなってしまったのである。

もっとも、難波に出たといっても結局デパートと喫茶店に立寄っただけで、人の多さと暑さにめげて、街をぶらつくこともなく地下鉄に乗って新大阪駅に向ったのであるが・・・。

と言うことで、ワシの連休は疲れを取るどころか、より疲れを溜め込む結果になってしまったのであるが、これも父親の一周忌と納骨の為であれば、やむをえない事であろう。

   2冊の本・・7月13日

数週間前に、一介の貧乏公家の身から明治政府の元勲にまで上り詰めた岩倉具視を描いた永井路子の「岩倉具視」(文芸春秋社)という本と、関東大震災後の戒厳令下で、アナーキスト大杉栄一家を虐殺したとして獄に繋がれ、その後満州に現れ、「満州の夜を支配した男」とまで言われた元憲兵大尉甘粕正彦の波乱に富んだ生涯を描いた佐野眞一の「甘粕正彦 乱心の曠野」(新潮社)という本を続けて読んだ。

どちらもノンフィクションで前者は、構想40余年、著者自らが「これが最後の仕事」という作品であり、後者は膨大な資料を読み込み、数多くの関係者に取材を重ねた単行本で500ページ近くの大作である。

岩倉具視が活躍したのは約150年前であり、大杉栄殺害事件からは85年、満州国の滅亡からも60年以上が経っている。

これらの時間の経過を長いと見るにせよ、そうでないと見るにせよ、岩倉具視の「孝明天皇毒殺」疑惑や、大杉栄ら3人の殺害犯が甘粕であったのかどうかに関しては、もはや明確な証拠を挙げての断定は不可能なようであり、結局は推論に推論を重ねるていくしか無いようである。

岩倉具視が活躍した江戸末期や明治の初めはともかく、大杉栄の殺害事件のあった大正12年と言えば、当局の検閲制度はあるったにせよ、新聞や雑誌等のマスコミは存在していた時代である。

そんな時代の出来事であっても、100年近くも経つと色々な歴史的な出来事も風化していって、事の真相をさぐるのは容易ではないのである。

ところで、日本の古代史を記した「日本書紀」は8世紀の前半に成立したものである。

これは大化の改新からでも70年以上も後のことである。(もっとも、記紀編纂の基本史料となった『帝紀』や『旧辞』は7世紀頃の成立と考えられているが。)

従って、「日本書紀」が過去の出来事をどれだけ正確に伝えているかという点になると、はなはだ心許ない気がする。

例えば、天智天皇が病に伏せって大海人皇子に「皇位を譲りたい」といった時に、事前に天皇の側近から、

「天皇はあなたに野心があるかどうかを試そうとしているので、よく注意して応えるように。」

とのアドバイスを受けていた皇子は辞退して、即刻出家して吉野に逃れたことになっているが、このエピソードなどは皇子か天皇の側近が漏らさない限り他人が知りようのないことである。(これに似たような話は随所に見られるが)

もっとも、「日本書紀」はその編纂の命令者である天武天皇の生年が書かれていないという不思議な書物であるが。

そのような本の記述を元にして史実を明らかにしていこうとするのであるから、日本の古代史は大変である。

もっとも、それ故に素人にも色々と自由に想像を膨らませることが出来て面白いのであるが。

   歌舞伎町ビル火災の判決・・・7月6日

この2・3日急に気温が30度を超すようになって、昼間に寝る生活をしているワシとしては、起きた時にはびっしょりと汗をかいている。

それでも、もう少し暑くなるまではクーラーを入れずに済まそうと思ってたのだが、この暑さの中で部屋でパソコンを操作していると、パソコンのファンが激しく音を立てて回るので、今日の午後は仕方なくパソコンを冷やすためにクーラーを入れてしまった。

ところで、7月2日(水)は、01年9月に「一番街通り」の雑居ビルから出火し44人が死亡した火災いわゆる「歌舞伎町ビル火災」の現場付近にカメラを担いだ報道関係者の姿が目立ったが、この日は業務上過失致死傷罪に問われたビル所有会社役員の瀬川重雄被告(66)などの東京地裁での判決が出る日であった。

公判では被告6人全員が終始起訴事実を否認していたが、結果は、

「東京・歌舞伎町で01年9月、雑居ビルから出火し44人が死亡した火災で、業務上過失致死傷罪に問われたビル所有会社役員、瀬川重雄被告(66)やテナント元経営者ら5人に対し、東京地裁は2日、禁固3〜2年(求刑禁固4〜3年)の執行猶予付き判決を言い渡した。一方、元テナント関係者(44)については、テナントの経営者を補佐する立場だったとして無罪とした。」

と言う判決であった。

事件発生から7年近くが経ち、火災の現場となった「明星56ビル」は火災後約5年間シートで覆われていたが、ビルは平成18年に解体され更地となり、現在は鉄製のフェンスで囲われている。

判決理由で波床昌則裁判長は、

「階段などに物品を放置せず、防火扉が正常に閉じるよう維持管理していれば、被害者が死亡することはなかった」

と指摘
しているが、確かに防火扉が清浄に作動していれば、少なくともこれほど多くの死者が出ることは無かったであろう。

この火災の原因は放火と見られているが、放火の犯人は一向に捕まらず、業務上過失致死傷罪に問われながら、最後まで責任を認めなかった被告達に執行猶予付きの判決では、遺族の方々もさぞかし無念な思いであろう。

また、それと同じように残念なことは、昨今の歌舞伎町を見ていると、7年も経つと大量の死者を出した「歌舞伎町ビル火災」の教訓が殆ど活かされなくなったしまっている感がすることである。

即ち、火災の前と同じように相変わらず狭い階段にビールのケースを積み上げていたり、巨大な看板で窓を塞いでいるビルが目立ってきているし、ビルに入るお客さん達の方も、以前ほど非常口等に注意を払わなくなて来ているように思えるのである。

しかしワシの場合、あの日あの火災をすぐ近くで目撃した人間として、あの火災の教訓を忘れるわけにはいかないのである。

   元の木阿弥・・・6月22日

歌舞伎町の「コマ劇場」の東に、通称「ビデオ村」と呼ばれる違法DVDを販売している店舗が密集している一画がある。

新聞報道などで既にご存じの方も多いと思うが、その「ビデオ村」が及びその周辺で、約1ヶ月ほど前に、

「警視庁保安課などにより、無修整わいせつ映像などを販売している『裏DVD店』が一斉摘発され、わいせつ図画販売などの疑いで、計42店の経営者や従業員計43人を逮捕された。同時にDVD約9万3500枚が押収され、過去最大規模の摘発となった。」

と言う事件があったが、さすがに事件直後はどの店も店を閉めていたが、数日後には数店の店が早くも営業を再開し、1ヶ月も経つと殆どの店が以前と同じように平然と営業を再開しているのである。

このところ夕方の歌舞伎町には制服警官の姿が目立つが、相変わらず彼等は通行人のバッグの中身を検査するくらいで、間違っても摘発時以外に「ビデオ村」に足を踏み入れたりはしないのである。

結局、1度の押収量、店舗数ともに過去最大規模の摘発のはずの今回の手入れも、例年どおり1ヶ月もすれば「元の木阿弥」である。

また、制服警官の姿は夜になると殆ど歌舞伎町から消えてしまうのであるが、代わりに最近の夜の歌舞伎町で目立つのは、以前にも書いた中国人の団体旅行者の姿である。

彼等の姿が目立つのは、彼等自体の人数が多いこともあるが、そのマイペースというか周りの人の迷惑を考えない行動振り故である。

彼等を見ていると、例えば彼等が歌舞伎町の通りで団体で立ち止まる場合、道の片側に寄るという発想が無いようであるし、商店の入口を塞ぐような場所に立ち止まらないと言う発想もないようである。

そんな彼等とコンビニ辺りで遭遇すると最悪である。

ある旅行業界の人の話によると、彼等のマナーの悪さの原因のひとつには、日本でガイドを雇うと料金が高いので、中国からガイドを連れてきているらしいのだが、そのガイド達自体が日本の習慣やマナーに関しての知識が乏しいために、自分達の国にいる時と同じように振る舞う事にもあるそうである。

まあ、外国からの旅行者の場合はある程度は仕方がないとは思うが、最近の歌舞伎町での彼等の行動を見るにつれ、このままではいずれ何らかの問題が生じるような気がするので敢えて書いておく次第である

   タバコ大幅値上げ論・・・6月15日

このところ、日本財団の笹川陽平会長が、

「財政再建のため、たばこを1箱1000円に値上げすべきだ」

と言う発言をしたり、超党派の「たばこと健康を考える議員連盟」が出来たりと、いつの間にか「タバコ1箱1000円時代」が目前に迫っているような印象を受ける程である。

ワシは今でこそ煙草をやめているが、それは一年半ほど前に喉の病気になり手術をしたので、それ以来ドクターストップがかかっているために、いわば仕方なく「禁煙」したので、それまでは結構なヘビースモーカーであったので、もし病気にならなければ多分いまだにタバコを吸っていたと思うのである。

禁煙をする以前に、同じくヘビースモーカーである店のお客さん達と、

「イギリスのようにタバコが1箱1000円もするようになったら禁煙するか?」

と言う話題になった時も、殆どの人間は、

「本数は減らすことはあっても、完全に禁煙することはないだろう?」

と言う意見であったが、ワシもその一人であったのである。

そういうワシから見ても、自動販売機でのタバコ購入に際しての「taspo(タスポ)」導入の経緯の不透明さ(何故自動販売機で利用するのに顔写真が必要なのか)や、今回の3倍以上の値段への大幅値上げ論を見ていると、さすがに

「これは喫煙者やタバコ販売店に対する一種のイジメではないか?」

と言う気もしているのである。

そもそも、タバコの健康に対する影響と財政再建の問題は次元が違う話だし、今回のタバコ大幅値上げ論の根拠のひとつに上げられているイギリスでタバコの値段の高さも、ロンドンの地下鉄初乗り料金が4ポンド(円換算で800円強)であることなどとの総合的な価格の比較が必要であると思われるが、そういったものがなされずに、ただ違法なものでもないタバコを吸っている人間から「取りやすいから取る。」というのでは少しむごい気がするし、この論争には現在タバコの販売を行なっている販売店に対する配慮なども一切うかがえないのである。

笹川会長はメディアなどで「たばこ1箱1000円にすれば税収は9兆5000億円増える。消費量が3分の1になっても3兆円は増収が見込める」と主張しているが、税収はともかく、タバコの消費量が減ればその分販売店の収入も減るのである。

喫煙者に対する世の中の風当たりは強くなる一方であるが、当の喫煙者はそれに対して色々な思いがあっても、最近はそれを声に出して言いにくい雰囲気がある。

今回のタバコの大幅値上げ論は、そのような風潮の上に立ったもののような気がして、タバコを吸わない人間の立場から敢えて異議を申立てる次第である。

   大宮八幡神社・・・6月8日

普段ワシは自宅から店まで歩いて通うことが多いのだが、このところ雨の日が多いこともあって電車で通う日が増えていた。

それで少々運動不足であったが、今日は夕方になっても天気が持ちそうだったので、運動不足の解消も兼ねて散歩に出掛けてみた。

どの方面に行こうかと考えていた時に、何となく寺か神社を見たくなったので、方南町の少し先の方にある大宮八幡宮に行ってみることにした。

大宮八幡宮は住宅地の中にある割には結構広い敷地の神社で、参道や本殿などの周辺の木々も深く、静かな雰囲気に浸れる神社であり、現在ワシの住んでいる中野新橋からは、神田川沿いに歩いてゆけば小一時間で行ける場所である。

途中の中野富士見町辺りには立正校正会関連の大きな建物も多いが、それらを横目に川から余り離れない程度に寄り道をしながら環七まで歩いた。

環七からは工事中のために神田川沿いは歩けなかったので、方南通りに出て神社を目指した。

曇ってはいたが結構蒸し暑かったので、参道の入口の鳥居の前まで辿り着いた時には、結構汗をかいていた。

深い緑に囲まれた石段に座っていると、気持ちの良い風が吹いてきて、汗がひいてゆく。

一之鳥居、二之鳥居をくぐって長い参道を本殿に向う。

本殿手前の神門の両袖には、男銀杏と女銀杏と呼ばれる一対の大きな夫婦銀杏がある。

丁度杉並区が後援する「さつき展」が開催されていたが、夕方の4時過ぎと言うこともあって、神門の中は人影もまばらであった。

総檜造りの本殿に参拝した後は、境内を散策しその後は弓道場の方に向かい、道場で弓を引く人達の姿をしばらく眺めていた。

時折矢が的に当たる「ぽん」という音がする以外に、殆ど音がしない静かな世界である。

「やっぱり来て良かったな。」

と思った。

何故なら、ワシは20代の後半から40代の半ばにかけて20年近く杉並区の方南町に住んでいたのであるが、その頃は休みの日の夕方などに時間があると、よくこの大宮八幡神社に来ていたのである。

周辺はどんどん変っていく中で、この大宮八幡の境内の雰囲気だけは、ワシが最初に来た時から殆ど変っていないのである。

そして、その変らなさが最近少し疲れていたワシの心を癒してくれるような気がしたのである。

その後は北参道から和田堀公園の方に降りて、公園の池の周りを歩いたり、公園で遊んでいる子供達の姿をぼんやりと見たりしてから帰路についた。

結局、3時間余りの散歩となったのである。

   新宿コマ劇場の閉館・・・6月2日

このところ暑くなったり急に涼しくなったりと、安定しない天候の日が続いているが、そのせいか風邪を引いたらしく、少し熱っぽく身体もだるかったので、昨日の日曜日はほぼ一日中ダラダラとベッドの上で過ごしてしまった。

その結果体調は少し回復したが、いつもは日曜日の夜に書くこの「ひとり言」を、月曜の昼間に書いているのである。

ところで、先週の水曜日(28日)に東宝株式会社より「新宿コマ劇場」および「新宿東宝会館」についての年内閉館が正式に発表された。

収容人数2000人を超を越える「新宿コマ劇場」は、昭和31年(1956年)のオープン以来50年以上にわたって「歌舞伎町のシンボル」的存在であったが、近年は入場客数の減少に歯止めがかからず業績低迷が続いていたため、以前から閉鎖は関係者の間では一種の周知の事実であったが、今回の正式発表で各マスコミでも大きく取り上げられていた。

コマ劇場周辺の再開発に関しては、「コマ劇場」や「東宝会館」を所有する東宝株式会社、「新宿TOKYU MILANO」を所有する株式会社東急レクリエーション、「オデヲン座」などを第一・第二東亜会館を所有する東亜興業株式会社、そして「地球会館」と「ヒューマックスパビリオン」の株式会社ヒューマックスの四社(通称四葉会)の共同開発の話が進んでいた時期もあったのだが、今回の東宝単独での発表から見ると、共同開発の方は上手く行かなかったようである。

また、東宝側の

「今後の再開発計画につきましては、引き続き株式会社コマ・スタジアムと協議を行い、事業性の検討を慎重に行った上で、概要が決定し次第あらためて公表いたします。」

と言う発表からは、今後どのような方向で再開発が行なわれるのかは見えてこないが、コマ劇場と東宝会館ビルの後に大規模なビルを建設したとしても、一体どのようなテナントが入るのであろうか。

場所柄、オフィスビルやショッピングビルでは入居者を集めることは難しいだろうし、映画館や劇場だけではビルを埋めることは難しいであろう。(映画館としては昨年2月にオープンした「新宿バルト9」に続き、今年8月には、旧新宿ピカデリーが入っていたビルの跡地に、地上12F、地下2F、10スクリーンのピカデリーがオープンするなど、歌舞伎町の映画館街を取り囲む周辺の状況にも大きな変化が起こってきているのである。)

まあ、そちらは東宝が考える事だとしても、いずれにしても長年歌舞伎町のシンボルであった「コマ劇場」が取り壊され、新たなビルが完成するまでには何年もの歳月がかかることは間違いがない。

その間、歌舞伎町はその中心部に巨大な空白地帯を抱える事になるのである。

周辺の飲食店への影響や治安の悪化の可能性等の問題も含めれば、「コマ劇場」閉鎖が歌舞伎町に与える影響は多大なものが予想されるのである。

ワシ個人としても、長年見慣れた「コマ劇場」が無くなるのは寂しいことであるが、これが今の歌舞伎町が置かれている現実なのだから仕方がないことである。

   雑誌の反響・・・5月26日

前回の「ひとり言」に、

「 蔵人の事が『THE Whisky World』と言う雑誌で紹介された。」

ということを書いたが、さすがにマニアックな雑誌だけあって、あの雑誌の記事を見て初めて店を訪れた人は今のところは居ない。

しかし、「ひとり言」を読んでわざわざ雑誌を買って読んでくれた人はいたようで、何人かの人からは記事の感想のメールも受け取ったりもした。

その中には、若い頃「蔵人」の常連であった人で、20数年間音信不通であった人からのメールもあった。

今では九州在住であるその人のメールによれば、何年か前に何気なく「蔵人」で検索してみて、自分がかつて通っていた店のホームページがあることに気がついて、それ以来時々ホームページを見てくれていたようである。

何度か近況報告がてらに「蔵人」のホームページ宛てにメールを書こうと思ったそうであるが、何となくきっかけが掴めなくて今日に至ったそうである。(ワシ達の世代の人間には、ホームページの掲示板に書き込んだり、ブログにコメントを書き込んだり、ホームページ宛てにメールを出したりすることが苦手な人間も多いのである。)

今回は、「THE Whisky World」が近くの書店に置いてなかったので、わざわざ取り寄せて読んでくれて、ワシや美和子さんの写真や、昔と変っていない店内の様子を撮した写真を見て、余りの懐かしさにメールを出してくれたのだそうである。

「蔵人」に通っていた頃は20代の青年であった彼も、今では大学生と高校生の2人の子供の父親となって、頭髪の薄さを気にするメタボおじさんになってしまっているのだそうである。

「それに較べて写真で見る限り、マスターも美和子さんもあの当時と全然変っていませんね。」

とも書いてあったが、そんなはずはないのである。

彼がよく店に来ていた当時は、ワシは30歳を少し過ぎた頃だったはずである。

その頃から較べれば、ワシも美和子さんも外見的にはそれなりに歳を取って来ているのである。

ただ、内面がそれに相応しく成長したかと言うと、そうでないところが問題なのである。

あの頃は、

「今は分からないことも、もう少し歳を取れば少しずつ分かって来るのだろう。」

と思っていたような部分もあったのだが、あれから20数年、何冊もの本を読んだり、それなりの経験を積んだりして、少しはものが分かった風な顔をしながらも、結局のところ、人生における肝心なことは相変わらず何一つ分からないままなのである。

だが、この歳になってぼやいていても仕方がない。

ここまで来れば、

「いつか、何かが少しは分かる日が来るかもしれない。」

と思って歩み続けるしかないのである。

   ワシが雑誌に・・・5月18日

このページを読んでいる人の殆どが知らないと思うのだが、「THE Whisky World」(プラネット ジアース社)という少しマニアックな雑誌がある。

その雑誌の5月15日発売の最新号が「エリアBAR特集」で新宿のBARを取り上げているのだが、その巻頭に「歌舞伎町の30年」と題した編集長である土屋守氏とワシとの対談が4ページにわたって掲載されているのである。

雑誌には、文章だけではなく店の内部やワシや美和子さんの写真も何枚か掲載されているので、興味のある方は本屋で買うなり、立ち読みするなりしてみて下さい。(表紙はこんな感じの雑誌です。)

もっとも、それほどメジャーな雑誌ではないので、それなりに大きな書店でないと置いていない恐れがありますが。

ところで、今回のエリア特集では「蔵人」以外にも何軒かのお店が紹介されているのだが、それらのお店はいずれもこの雑誌のテイストに相応しい本格的なBARである。

にもかかわらず、何故本格的なBARでもない店のマスターであるワシと編集長である土屋氏との対談が巻頭を飾る事になったのかというと、実は現在「スコッチ文化研究所」の代表を勤めウイスキー評論の第一人者である土屋氏が、若かりし頃に「蔵人」の常連客であった時代があったからである。

土屋氏が「蔵人」に初めて顔を見せたのは、今から約30年程前であった。

その後彼はイギリスに渡り、帰国後はウィスキーやイギリスのライフスタイルをテーマにしたエッセー等を発表しながら、ウィスキー評論家としての名を高めていったのだが、その彼から20年振りくらいに店に電話が掛かってきた事が、今回の対談のきっかけとなったのである。

先日その雑誌が送られてきたので、店に置いて常連のお客さん達にも見て貰っているのだが、皆例外なく、

「さすがプロのカメラマンが撮ると、蔵人もそれらしく見えるものだね。」

という風な感想を述べるのだが、確かに写真で見る限り「蔵人」も何となく雰囲気のある店に見えるのである。

しかし、ワシが今回の取材で一番大変だったと思うのは、ワシと土屋氏の対談のテープを原稿に起こす作業である。

何しろ、直接聞いても何を言っているのか良く分からない不明瞭な大阪弁で話すワシの話をテープから起こすのであるから、よく聞き取れない部分も多々あったと思うのである。

一応ワシも取材の際に編集の人に、

「ワシの話の聞き取れない部分は、そちらで適当に判断してくれて良いですよ。」

と言っておいたのではあるが。

時代の流れなのか、昔に較べるとウィスキーを飲む人間がどんどん少なくなってきていたが、近年シングルモルトウィスキーのブームもあって、「蔵人」でもウィスキーを飲むお客さんが少しは増えたような気もするが、若い人達にウィスキーを普及させるためにも土屋氏や「THE Whisky World」のような雑誌にはより一層頑張って欲しいものである。

   「アルバイト娘募集」のその後・・・5月11日

2月のこのページで、

「昔と較べて、最近はアルバイトの娘を捜すのに結構苦労するようになってきた。」

と言う内容の話を書いたし、その頃はこのホームページ上にも「アルバイト募集」のお知らせを載せたりもしていた。

あの頃は、丁度店にとって年末と並ぶ繁忙期である3月を目前に控えていたこともあって、かなり焦っていたのであるが、その3月は綱渡り的にアルバイトの娘達をやり繰りして(中には結構娘達に無理をして貰った事もあったが)何とか無事に乗り切ったのである。

そして4月に入る頃になる、声を掛けていた知り合いの紹介などで新たに働きだしてくれた娘がいたり、この連休明けには「蔵人」アルバイト史上最長記録を保持するM1嬢が現役復帰することになったりして、この件に関してはやっと一息ついているところである。

但し現在は、週2回働いてくれる娘1人以外は、4人の娘達(そのうち2人が新人)が週1回ずつ働いてくれている事になるので、それはそれなりに大変なのであるが、何はともあれアルバイトの娘捜しで色々手を尽くして下さった方々や、ご心配をお掛けた皆様方には、この場を借りて御礼を言っておく事にする。

ところで、「蔵人」で新たにアルバイトを始めた娘達がまず最初にしなくてはならないことは、ワシに対して、

「少なくとも30年以上店にいるのだから、これくらいのことは出来るだろう。」

と言う甘い期待を捨てて、

「マスターは、仕事面では居ないよりはマシくらいの存在である。」

と認識することである。

それを認識した時から彼女達は「蔵人」のアルバイトとしての第一歩を踏み出すのである。

「蔵人」における序列は、いつの場合も、美和子さん、その日のアルバイトの娘、ワシの順なのである。

   万座温泉旅行記・・・5月6日

今年のゴールデンウィークは「蔵人」も3日(土)〜6日(火)までの4連休であった。

そのゴールデンウィークの4日、5日と一泊二日で群馬県の万座温泉に行ってきた。

何故今回の旅行の行き先が万座温泉になったかというと、美和子さんによれば、

「草津温泉に行こうかと考えていたが、草津は旅館がどこも一杯で取れなかった。それで近くの万座温泉の旅館に電話してみたらたまたま部屋が取れたから。」

と言う理由からである。

5月4日

午前10時

上野駅発の特急「草津3号」に乗り込む。

美和子さんの立てたこれまでの旅行計画では、前日午前2時まで店を営業して朝の6時台の新幹線に乗ると言うものもあったが、今回は前日店が休みだったこともあり睡眠時間はそれなりに確保できた。

約2時間半で吾妻線「万座・鹿沢口」に到着。

駅前からバスに乗り「万座プリンスホテル前」で下車。

バス停からは、歩いて本日の宿泊先である「万座温泉ホテル」に向う。

約10分ほどで「万座温泉ホテル」に到着したが、周辺の山々にはまだ残雪が残っていた。

いつものワシ達の旅行は、やたらと歩き回るのが常であるが、このところ少し疲れ気味なので、今回のテーマは、

「のんびりと温泉に浸かる。」

と言うことで、午後2時過ぎにはチェックインを済ませ、周辺を少し散策した後はホテルに戻り温泉三昧である。

このホテルには9種類の風呂があるが、先ずは「極楽湯」と言う戸外にある展望露天風呂へ。

明るい日差しのもとで、残雪が残る万座山麓を見ながらのんびりと露天風呂に浸かっていると、心身ともに少しは癒されてゆく気がしてきた。

星空の元でもこの「極楽湯」に入ってみたくて、夜になって再度来てみたのだが、生憎曇り空で星はひとつも見えなかった。

湯舟に浸かり真っ暗な空を眺めながらワシは、前回の「ひとり言」にも書いたT君の事を思い出したりしていた。

5月5日

朝食後、ホテルから歩いて「万座プリンスホテル前」のバス停に向かい、そこからバスで白根山の火口に向う。

コバルトブルーの水を湛えた「湯釜」と呼ばれる白根山の火口湖は、神秘的な雰囲気で白根山のシンボルでもある。

この日はあまり天気が良くなく、バスで来る途中にはガスがかかっていた場所もあったが、幸いなことに少しガスはかかっていたものの無事「湯釜」を見ることが出来た。

火口からはシャトルバスで「ロープウェイ白根山頂駅」に向い、ロープウェイで「殺生河原」バス停まで降り、そこからバスで草津温泉バスターミナルに向う。

バスターミナルの少し手前のバス停でバスを降り、「西の河原公園」内にある、浴場面積が500平方メートルもある広大な「西の河原露天風呂」に立寄った。

さすがに広大な露天風呂で、開放感に溢れていた。

そこから草津温泉旅館街に入り、湯畑を見たり土産物を買ったりしたが、さすがに有名観光地だけあって人が多いのには閉口した。

途中で雨が降り出してきたこともあり、予定より早めにJR「長野原草津口」に向かい、3時40分台の上野行きの臨時列車の指定席が空いていたので、その臨時列車に乗って上野まで帰ってきたのである。

今回は旅行の前後に1日ずつ休みがあり、旅行自体も割とのんびりとしたスケジュールだったので、今回の連休は少し物足りないものの、ひとまず良い休養にはなったのである。

   T君のこと・・・4月27日

19日の土曜日の午前9時半頃、ワシは礼服に白のネクタイ姿で、新大阪駅の近くの江坂という町にある結婚式場の控え室にいた。

午前中に行なわれる妹の娘(即ちワシにとっては姪に当たる)の結婚式に出席するために前日から大阪入りしていたワシは、少し早めに式場に着いて控え室で休んでいたのである。

そしてそれから8日後の今日の午前9時半に、ワシは同じく礼服に今度は黒のネクタイ姿で、府中にある多磨霊園の中にある日華斎場と言うところにいた。

午前10時から行なわれるT君の火葬に立ち会うためである。

T君は15年以上にわたる「蔵人」のお客さんであった。

会社の最初に先輩に連れられて「蔵人」に現れた時の彼は、テレビ番組の制作会社の20代前半のADであったが、当時から「マイケル」という愛称で呼ばれていた。

その後T君は会社を変ったりして、余り「蔵人」に顔を見せなくなった時期もあったが、この数年は会社が新宿に移って来たこともあって、再び職場の同僚や後輩達と一緒によく店に顔を見せてくれるようになっていたのである。

明るい性格で面倒見が良い彼は、職場の後輩達にも信頼されていて、後輩達の相談に乗ることも多かったようである。

仕事がらもあり、彼が「蔵人」に顔を出すのは遅い時間が多く、ワシや美和子さんが(時にはアルバイトの娘達も一緒になって)、閉店時間が過ぎても彼や彼の仲間達と話し続けることも多かったのである。

特に美和子さんは昔から、T君の事をいわば弟の様に可愛がっていたのである。

そんな彼がクモ膜下出血で突然倒れ、救急車で病院に運ばれたのは21日の月曜日である。

そして、その後意識が回復しないままに、23日の夜に息を引き取ってしまったのである。

T君が最後に店に顔を見せたのは14日の月曜日である。

その時もカウンターに座って、同僚や居合わせた他のお客さんと楽しげに会話をしていた。

その日も例のごとく彼等が最後の客となったのだが、その時に何故か、

「T君とは長い付き合いだけれど、,今まで一度も一緒に旅行に行ったことが無かったな。今度時間が合えば一度皆で一緒に温泉にでも行こう!」

と言う会話になったが、この約束はもう永遠に果たされることは無くなってしまった。

   美人も時と場合に・・・4月20日

16日の水曜日に新宿にあるT医大で、大腸の内視鏡検査を受けた。

これは、別に便の検査で引っかかったからと言うことでは無しに、昨年の末くらいから原因不明の腹痛に悩まされていて、これまでエコー・胃カメラ・CTスキャンと色々と検査を受けてきたのだが、原因がはっきりしないので

「多分精神的なものだろうが、念のために一応大腸の方の検査もやっておこう。」

と言うことで行われたものである。

胃カメラの方はこれまで何回もやった事があるワシも、この大腸の内視鏡検査の方は初めてであった。

当日の検査開始時間は午後3時であったが、この検査はそれまでの準備が大変なのである。

何しろ検査の前に腸の中を綺麗にしておかなくてはならないので、家を出る4時間くらい前から2時間くらい掛けて2リットルの下剤を飲まなくてはならないのである。

即ちワシの場合は、午前10時前くらいから飲み始めて12時頃まで掛けて飲んだのである。

これだけ大量の下剤を飲むのであるから、飲み始めて1時間後くらいからは、「トイレとお友達」状態である。

その状態が4時間近く続き、何とか「トイレ離れ」が出来てからようやく病院に向けて出発である。

病院では検査用の衣服に着替え、看護師さんの指示に従い検査室のベッドに横になった。

しばらくすると検査をしてくれる医師が検査室に入ってきたのだが、その医師を見た瞬間ワシは、思わず検査を中止して貰おうかと思ったのである。

何故なら、その医師は中国系の妙齢の女性で、しかも目鼻立ちのきりっとした美人だったのである。

ワシは今まで何回となく胃カメラの検査を受けたりしているが、その検査の担当医師が女性であったことはなかったのである。

従って、今回も何の根拠もなく、

「当然男性の医者が検査するのだろう。」

と思っていて、ワシは彼女が目の前に現れる瞬間まで、その検査の担当が女性医師である事は想像だにしなかったのである。

これが眼科や耳鼻科なら、ワシも 、

「担当が美人のお医者さんでラッキー!」

と喜んだかもしれない。

しかし、大腸の内視鏡検査というのは、肛門から長さ1m余りの内視鏡を腸内に入れて大腸の内部を検査するのである。

何が悲しくて、そんな恥ずかしい検査の時に限って担当が妙齢の美人医師なのだ。

しかし、この歳になってまさか、

「美人の女医さんにお尻を見せるのが嫌なので、検査はやらない!」

と言うわけにはいかないであろう。

検査は腸の中に空気を送り込みながら、曲がった腸内に内視鏡を送り込んでゆくのである。

当然お腹も張るし、曲がり角では痛みも生じるのである。

女性医師の方は、

「お腹が張ったり痛かったりした時は、遠慮無くガスを出して下さい。」

と言ってくれるが、ワシは彼女の前では出来るだけガスを出さないように頑張ったし、結構痛い思いも我慢したのである。

検査の詳しい結果は来週分かることになっているが、取りあえず問題になりそうなポリープ等は発見されなかったようである。

最近は女性の医師も増えてきているが、美人の医者も

「時と場合によりけり。」

である。

   懐かしいお客・・・4月13日

つい先日に新年を迎えたような気がするのだが、いつの間にか桜も散って、気がつけば4月の中旬である。

月日が経つのが早いのか、ワシがボーとしているだけなのか。

ところで、毎年のこくらいの季節になると、久し振りに「蔵人」を訪れてくれる人が何人かいるのである。

その人達は転勤その他の理由でしばらく東京を離れていて、4月の移動で再び東京に戻ってきた人達で、そういった人達が挨拶がてらに店に顔を出してくれるのである。

中には10年以上振りに顔を出してくれる人も珍しくはなく、先日も以前の常連客で20年振りくらいに顔を出してくれたお客さんがいたが、前に「蔵人」に来ていた頃はスリムな青年であった人が、今では立派なメタボオジサンになっていた。

もっとも、貰った名刺の肩書きも「**部部長」と体型に相応しいものになっていたが・・・。

カウンターに座り水割りを飲みながら彼は、

「何年か前に当時の知り合いから、蔵人が未だ店を続けていると聞いた事はあったのですが、今日新宿駅から「蔵人」に向いながら、今も未だ営業を続けているのだろうか、と疑問に思いながら歩いてきましたよ。」

「この通りに入り蔵人の看板が見つかった時は少しホッとしましたが、今度は階段を下りながら、美和子さんとマスターがまだ店に出ているのかどうかが心配になってきましたよ。店のドアを開けて美和子さんとマスターの顔を見た時は懐かしくて思わず声を上げそうになりましたよ。」

しばらくしてワシがウーロン茶を飲んでいるのに気がついた彼は、

「アレー、マスターはお酒を止めたのですか?」

と聞いてきた。

そういえば、毎日のようにカウンターで酒を飲んでいたワシが酒を止めてから、もう7年以上が過ぎてしまっている。

「それにしても、この店の雰囲気もマスターも美和子さんも変りませんね。こうしてカウンターで酒を飲んでいると、あの頃にタイムスリップしたような気がしますよ。」

と彼は言ったが、東京を離れた後の彼は、海外を含む何ヶ所かの支店を転々として、ようやく今回東京に戻ってきたようである。

転勤先での生活や、その後の彼の仕事や家族の話を聞きながらワシは思った。

「その間ワシは、相も変わらず歌舞伎町の地下の酒場のカウンターに座り続けていたのやな。」

良い悪いは別にして、仕事も人生も人それぞれである。

「今度は昔の仲間と一緒に来ますよ。」

ひとしきり話した後、彼はそう言って帰っていった。

   映画「靖国」に関して・・・・4月7日

中国人監督によるドキュメンタリー映画「靖国」の上映問題が注目を集めている。

ワシは未だこの映画を見ていないので、映画の内容そのものについてはコメントすることは出来ないが、そもそもは、この映画に公的助成金が出ていることを疑問視した自民党の稲田朋美衆院議員側が文化庁に問い合わせたのをきっかけに、国会議員向けの異例の試写会が3月12日に開かれた事が事の始まりである。

その試写会には約80人の議員らが出席したのだが、感想を求められた稲田議員が、

「偏ったメッセージがある。」

と話した事から問題化し、4月12日からの上映を決めていた映画館5館すべてが31日までに上映中止を決める事態となったのである。

上映中止を決定したのは、いずれもトラブルや嫌がらせなどを警戒しての判断という事であるが、その背景には銀座シネパトスを経営するヒューマックスシネマが3月20日過ぎから街宣車などの抗議を受けたことが大きく影響しているように思われる。(それ以外の映画館も電話等による抗議は受けたようであるが。)

映画「靖国」の上映が中止された問題では、映画・演劇をはじめとするマスコミ業界の労組が1日、

「日本映画史上かつてない、映画の表現の自由が侵された重大事態。政治的圧力、文化支援への政治介入、上映圧殺に強く抗議する。」

などと相次いで声明を出していたが、彼等は果たして誰に対して抗議しているのだろう?

街宣車を出して抗議行動をした右翼団体に対して正式に抗議したのだろうか?

と言うのは、ワシから見れば、右翼による街宣車による抗議行動に対してはテレビ局あたりがもっとも弱腰なように思えるからである。

つい先日の日教組へのプリンスホテルの使用拒否問題でも、ホテル側の対応を批判する時は威勢が良いが、毎年のように日教組の全国集会の会場の周辺で繰り広げられる右翼の街宣車等を使っての大騒ぎ振りには通り一遍の批判をするだけである。

日教組の大会にホテル側が会場を貸したがらないのは、日教組の組合員達が大騒ぎをするからではない。大騒ぎするのは会場周辺に詰めかけた右翼達である。

多くのテレビ局が色々な理由で過去に右翼の街宣車による抗議行動を受けたことがあり、その経験からか右翼団体に対しては腫れ物に触るような扱いである。

幸いなことにその後、「靖国」に関しては、配給・宣伝会社のアルゴ・ピクチャーズは、4月4日現在で全国の21館が5月以降に上映予定であることを明らかにしたが、威勢の良さだけが取り柄の一部の政治家が先導し、それに右翼が便乗し(或はその逆の場合もあるが)、マスコミや大衆の自由な発言や表現を抹殺していって、その先に何が待ち受けていたのかを、この国の人間は60数年前に身を以て知ったはずである。


そういう意味でも、マスコミの扱いも含めて今後の成り行きに注目していきたいと思っているワシである。

   独裁者「石原」・・・3月30日

最近は暖かくなり出したので、少し前から以前のように、時間のある時には家から店まで歩いて通うようにしているのであるが、先週の木曜日と土曜日の2日間、途中で「新宿中央公園」に立寄ってみた。

木曜日の方は未だ公園の桜は5分咲き程度であったが、土曜日には7・8分程度まで咲いていた。

毎年のようにワシは、桜のシーズンにはこの公園に来ているのであるが、今年もホームレスの人達のビニールハウスは公園を訪れる人々の目に付かないように奥の一画に追いやられていた。

この中央公園からは桜の枝越しに都庁の巨大なビルが見えるが、そのビルの7階には知事室がある。

この部屋の主が、事態に対する十分な説明も果たさないまま、都民の大半の反対を押し切り強行した経営難に陥っている新銀行東京に東京都が400億円を追加出資する議案は、28日に都議会本会議で賛成多数で可決されたが、既に多くの人々がご存じのように、それに先立つ一連の騒動の中で、世論調査で都民の多くが反対していることを報道陣に聞かれた際に石原知事は、

「世論調査を気にしていたら政治はできない。」

「要するに、都民が議会以上のことを知っているわけないんでね。」

と言う発言をしたのである。


世論を気にしないで行なうのは民主政治ではなく、独裁政治である。

いくら彼が独裁者でありたいと思ったところで、さすがにワシも、

「これが彼の本音だとしても、今の日本でここまで言ったらお仕舞だろう。」

思ったのだが、それでお仕舞いにならずに、彼が求めた結局400億円の追加融資は自民・公明の賛成で決定されてしまったのである。

石原知事は新東京銀行の今後について、

「経営改善の具体策は手の内を明かすことになり公表できない。」

としているが、要するに何の具体策も示さず(無し)に400億円を都の予算から引き出すのだから、さすがに独裁者石原である。

A-ビアス著の『悪魔の辞典』には、

「独裁者・・・専制政治の弊害を無政府主義の害悪よりも好ましいと考える、国家の首班。


とあるが・・・。

   「BERG」(ベルグ)の立ち退き話・・・3月24日

既にマスコミやネット上で話題になっているので、ご存じの方もいらっしゃるでしょうが、新宿ルミネエスト(旧マイシティ)の地下、丸の内線へ向かう通路のところにあるビア&カフェ「BERG」(ベルグ)が、立ち退きの危機にさらされている。

このお店は18年も続いているお店であるが、店長の井野さんによると、立ち退きを要求されたのは昨年夏ごろで、

賃貸契約を定期契約にすることを求められ、断ったら「なら立ち退きを」と通告されたそうである。

理由は「ルミネはファッションビルだ」とだけ聞かされたそうである。

ネット上のベルグの店長の文章を読んで貰えば分かるが、この「定期契約」というのはとんでもない悪法で、従来型の借家契約では、正当事由がない限り家主の方からの更新拒絶はできず、自動的に契約が更新されることになっていたのだが、「定期借家契約」では契約で定めた期間の満了により、更新されることなく確定的に借家契約が終了すると言う、大家にとっては誠に都合の良い契約方式なのである。

従って、この契約では店の長期計画などは建てようが無く短期決戦で勝負するしかなくなるのである。

とは言っても、最近では歌舞伎町の物件でも「定期契約」が増えているそうである。

その理由は、契約内容が大家に有利であるだけに、その分保証金や家賃が安い場合が多いからである。

例えば「FUZOKU」店やキャバクラ・ホストクラブ等で、元もと短期決戦で商売をしようとする場合は、家賃は安ければ安いほど良いのであるし、元もとその場所に根付いた商売をする気がなければ、契約が満了したら改めて他の場所に移れば良いのである。

ただ、それは内装や厨房等の設備にお金を掛ける必要の無い業種の場合にだけ可能な方法で(「FUZOKU」情報店がその典型である。)、飲食店のようにそれらにそれなりの費用を掛けると、契約期限内にそれらを回収することは難しくなるのである。

例えば、内装にそれなりにお金を掛けたレストランの場合、2〜3年でその費用を回収するのは難しいし、そもそも商売というものは時間をかけてお客さんを増やしていくもので、出来れば同じ場所で長く営業する方が常連客も増えやすいのである。

従って全店舗と「定期契約」を結びたがっているルミネの場合、内装に余り金が掛からないファションビルの方が都合が良いわけである。

また、店舗用の建物の場合は、幾つかの制約はあるものの、従前に結ばれた借家契約を借家人の方、家主の方、双方が合意して終了させ、同一の建物について定期借家契約を結ぶことはできるので、その場合借家人の方がこの「定期契約」の事を十分理解していないと、ある日突然店を明け渡さなければならないという事態が発生する可能性があるのである。

最近の歌舞伎町はフリーの客を相手にするチェーン店のお店が増えてきたが、まだまだ常連客を大事にしている個人経営のお店も多い。

そう言ったお店の方々が、この悪法のために契約更新の際に不利益を被らないこと祈るのみである。

「定期借家契約」に関しては下記のサイトを御参照下さい。

 http://www.jlaf.jp/iken/2000/iken_200002.html

 http://www.pref.osaka.jp/jumachi/teishaku.htm

また、「ベルグ」に関する情報は、

 http://www.berg.jp/    http://ameblo.jp/love-berg/

   客引き行為のその先は・・・3月16日

少し前のこのページでアルバイトの娘達のことを、

「今では彼女達の親たちの年齢がワシ達と余り変らないようになってきて、文字通り彼女達は娘のような年齢になってきたのである。」

と書いたが、このところ臨時で「蔵人」のアルバイトをしてくれている20歳の娘の母親は、何と40歳(父親は44歳)と言うことである。

こうなると、もはや彼女にとってはワシや美和子さんは彼女の両親と祖父母の間くらい(或はかなり祖父母寄り)の年齢である。

確実に時代は変りつつあるのである。

ところで、昨年くらいから深夜になると「蔵人」のある「エビ通り」の一本「コマ劇場」寄りの通りのコンビニの周辺に、アジア系の女性数人が立ち、道行く男性に声を掛けたり、相手が酔っぱらっている場合は腕を組んだりして目に余る強引な客引き行為をしているが、彼女達は近くにあるエステ店で働く女性達である。

また、最近では彼女達は「エビ通り」の西武新宿駅寄りや「西武新宿駅前通り」のカプセルホテル「グリーンプラザ」あたりにまで進出しているのである。

ワシも時々深夜に、彼女達にキャッチされる客を見かけたりしていたが、その後その客達がどのような目に会うのか迄は知らないでいたのである。

ところが先日、ひとりのお客がその体験談を話してくれたのである。

彼によれば、それは昨年の年末のことであった。

忘年会で遅くなった彼は、カプセルホテルに泊まろうと思い西武新宿駅近くの通りを歩いていた。

その時彼はいい加減酔っぱらっていたので、近づいてきたアジア系の女性が彼に腕を絡ませてきた時も、敢えてそれを振り払わなかったそうである。(但し、その時歩きながら彼は財布を上着のポケットからズボンのポケットに移し替えたそうである。)

すると、その女性は彼と腕を組んだまま近くのビルにある「エステ店」に入って行ったのである。

店の奥は個室に仕切られていて、中にはマッサージ台があり、そのマッサージ台に寝かされた彼に対しその女性が下手なマッサージを始めたそうである。

そのうちに睡魔に襲われた彼はしばらく眠ってしまったそうであるが、目が覚めた時には彼女はそばにいず、壁越しに彼女達が話す中国語らしい言葉や笑い声が聞こえてきたそうである。

彼女達の話の内容が分からないだけに、彼としてもこの時は不安が増大し、少し素面に戻ったようである。

しばらくすると先ほどの女性が戻ってきて、再度彼にマッサージをし始め、耳元で、

「もっと気持ちのよいことをしたくないか?」

囁いたそうである。

それに対し彼は、僅かに残っていた理性を振り絞って彼女に対し、

「No!今日は飲み過ぎたので僕は眠りたいのだ!」

と叫んだそうである。

すると彼女は部屋から出ていき、代わりにもっと若くて可愛い娘が入ってきて、同じように耳元で、

「財布どこ? もっと気持ちの良いことあるよ。」

と囁いたそうである。

さすがに彼もその言葉にはグラッときたらしいが、再度、

「No! 私はただ眠りたい。」

と繰り返したそうである。

彼が次ぎにマッサージ台の上で目を覚ましたのは午前6時頃だったそうである。

それから彼は、部屋を出て勘定を済ませて店の外に出たのであるが、その勘定の金額はここには書かないで置く。

彼曰く、

「まあ、それくらいで済んでラッキーでしたよ。あの時誘惑に負けて『YES』と言っていたら、そんなものでは済まなかったと思いますよ。」

ワシから言わせれば、最初に腕を取られた時に振り払わなかったの事が、既に誘惑に負けている証拠だったと思うのだが・・・。

最近は、この種の女性と黒人の客引きの姿が目立つ歌舞伎町であるが、「歌舞伎町浄化作戦」と言いながらも、職務質問には熱心な警察の方も一向に彼女達を取り締まらないのである。

最近では、「グリーンプラザ」の入口付近に立ち、カプセルに入ろうとする客をキャッチしようとする女性までいるのである。

もっとも、彼女達にしろ、黒人の客引き達にしろ、こちらが毅然とした態度でいれば、それ以上しつこくはしないのであるが、酔っている時に毅然とした態度を取るのは案外難しいものである。

と言うことで、「蔵人」のお客さんも、被害に遭わないようにくれぐれも気を付けて欲しいものである。

   急行「銀河」の廃止・・・3月9日

3月15日のダイヤ改正で、東京・大阪間を結ぶ夜行寝台列車である急行「銀河」が廃止されることになっており、最近はそれを惜しむ人々の声が最近の新聞の紙面にも載せられてりしている。

この「銀河」という列車は長い歴史を持った列車で、「銀河」という愛称は1949年に夜行急行の愛称に附されたのが最初である。

その後色々な変遷があり、数多くの「寝台特急」が生まれる中で「銀河」は「急行」という列車種別を貫き、いつしか日本で最後の「寝台急行」として今日まで生き残ってきたのである。

ところで、この「銀河」と言う列車にはワシも学生時代には結構お世話になったのである。


と言っても、当時貧乏な学生であって、新幹線で東京に行くことすら贅沢であったであったワシ達には、寝台列車などは無縁の存在であった。

そのワシが何故「銀河」にお世話になったかというと、'70年頃の国鉄(今のJR)には、夜の10時台に大阪駅を出発して朝の6時台に東京駅に着く座席急行列車である(或いは寝台列車の一部が座席列車であったのかもしれないが)「銀河」という急行列車が存在していたのである。

また、当時「ミニ周遊券」と呼ばれていた割引切符があり、それを利用すると安い値段で東京・大阪間を往復することが出来たのであるが、そのミニ周遊券で急行列車には乗ることが出来たのである。

従って、その頃の関西の学生達にとっては、「銀河」や東京・大阪間を結ぶ国鉄の夜行バスである「ドリーム号」を利用するのが東京に行く際の割安な手段であったのである。

ワシは長時間バスに乗るのは苦手なので、もっぱら「銀河」を利用したのであるが、リクライニングもない固い4人掛けの座席の上に8時間余りも座りっぱなしで東京迄来ていたのである。

当時は学生新聞の編集をやったりしていた関係で、それなりに東京に来る機会はあったのだが、東京での宿はもっぱら知り合いの下宿屋やアパートを泊まり歩いていたのである。

その頃は4畳半や6畳一間で暖房器具は炬燵ひとつ、という狭い部屋に4・5人で雑魚寝することも珍しくはなかったのである。

当時東京で知り合った友人達の中には、その後ワシが店を開く時に協力してくれた人間や、初期の「蔵人」に足を運んでくれた人達も沢山いたのである。

あれから30年以上の歳月が流れ、今でも交流の続いている友人達が居る一方で、いつの間にか付き合いが途絶えてしまった友人達も多くなってしまったが、彼等・彼女等は元気にやっているのだろうか?

「銀河」の廃止というニュースに接して、久し振りに当時の友人達の事を思い出してみたワシである。