「証し」としての蔵人

私の蔵人デビューは1987年、14年前ですね。

京都からの転勤先であった浜松町の職場は、20代半ばの連中がウヨウヨしているようなところで、当時25歳だった私ももちろん"ピチピチ"してました。

同じ仕事をする仲間連中が既に蔵人に出入りしていて、「引きずりこまれる」ごとく通うようになったのです。

夜10時まで仕事をしてそれから繰り出すことが多く、タクシーと地下鉄を乗り継ぐという、安くて早いパターンをいつしか開発し、10時40分頃が「出没」の定刻だったと思います。

あの頃はバブル全盛で、そのせいか蔵人も金曜はもちろん平日でも満席のことがしょっちゅうで、近所のラーメン屋や居酒屋で時間をつぶすこともありました。

それでも12時過ぎの終電までにシコタマ飲んで、仲間みんなで一本のボトルを共有し、そのボトルのシリアルナンバーを更新していくのがいつしか楽しみになるという、模範的な (???)客でした。

私といえば、「どんなに酔っても、ちゃんと池袋で電車を乗り換え、自分の駅で降りて、時には道端に駐車しているトラックに激突したりしながらも無事に帰りつく。」というのが密かな自慢だった・・・。

満員の店内の奥、時には芝居の打ち上げの集団が賑やかに陣取って、その輪の中心に、スポーツ刈りの(映画「サード」の主演俳優でもある)N島氏なんかを見つけると、わくわくしたもんです。

カウンターには、「常連」のみなさんが入れ替わり立ち代わり顔を並べ、その中には(最近御無沙汰だけど)作家の軒上泊氏や笹倉明氏もいて、聞くとは無しについつい耳がそっちにいく事もしばしば。

そうそう、その軒泊氏が小説の中で、蔵人を彷彿させるお店を登場させたことがありました。

マスターや美和子さん、そしてバイトの子(たしか京子ちゃん)を彷彿させる描写と共に、カウンターの客を称して「気のいいサラリーマン達」とい言ったくだりがあり、この「気のいいサラリーマン達」とは”おれたちのことだ”と勝手に信じ込んでいたのでした。(それが私のハンドルネームの由来であることはいうまでもない。)

はじめのころは仲間とあれこれ話しをし、その合間にマスターや美和子さんと 他愛もない言葉を交わす程度だったけど、3年・4年と過ごすうち、時にはタクシー覚悟で話し込むことも増えていきました。

年齢的には、兄弟とか気心知れた会社の先輩というには少し離れているし、もちろん上司なんて感覚ではないし・・・と、自分にとってはそれまでにないカテゴリー のお二人であり、なおかつ年上のお二人に遠慮なくいろんな事の話が出来たり、 時には話を聞く側に回ったり、といったあれこれが私にとっての「居心地の良さ」なんでしょうね、きっと。

そんな東京での生活は、大阪転勤によって丸5年で終わりました。

一緒に蔵人へ通った仲間も同時に、九州や横浜へと勤務することになって、その辞令がおりた晩も、カウンターであれこれ話し合ったのを覚えています。

しばらくしてマスターとメールで交流がはかれるようになってからは、あの「歌舞伎町通信」や世間話のメールなんかで、なんとか蔵人とつながっていた感じでした。

そして6年のブランクのあと仕事内容が変わり、東京出張のたびにちょく ちょく(もしくはそれ以上)顔を出せるようになって、今日に至る・・・.なのでした。(もっとも、日帰り出張の場合は、最終の「のぞみ」までの時間制限つきですが。)

私にとっては、いろんな出来事、想いとともに東京で生活した「証し」が蔵人に あるような気がします。

それを抱きつづけて行くために、そして新しいものをそこに重ねていくために、蔵人がいつまでも存在し続けて欲しいと思うのです。

気のいいサラリーマン2号(会社員)