(T)
「蔵人」にはじめて私が来たのは、1976年4月。
開店してちょうど1ヵ月後のことだ。
新宿はおろか東京のことは何にもわからない私が、なぜ歌舞伎町のどまんなかのこのちっちゃなスナックに流れついたのか。
その日私は、入学の手続きをするために大学の文学部の事務所に来ていた。
まだ下宿も決まってなかった。
用事が終わりぷらぷらとスロープを下っていると、正門の手前にK山が立ってこっちを見ているのが見えた。
K山は私の予備校のクラスメートだ。
「なにしとんねん?」
「誰か知ってるやつが通らへんかなと思って」
たぶんそんなあいさつを私たちは交わした。
それからたぶん私たちはどっかで茶でも飲んだ。
そのころK山は早熟な感じがあった。
少なくとも私にはそう見えた。
私たちは大学のサークルなどについて語りあったが、K山のほうが私より少しずつ深くいろんなことを知っていた。詳しくは覚えていないが、そういう印象があった。
私たちはおそらく酒や新宿などについても語っただろう。
私はまだ一度も新宿をこの目で見たことがなかった。
「歌舞伎町にな、知ってるスナックがあるねん」
K山の早熟な口元から出たひとことを私はどんなに羨望の思いで聞いたことだったか。
もちろん私は歌舞伎町が新宿のどこにあるかも知らなかった。
彼は前の晩、そのスナックで飲んだと言う。
「ひ、ひとりで?」
「うん。ゆうべはマスターとミワコさんのとこに泊めてもろたわ」
「すごい・・・」
(U)
その夜、私は、K山につれられてドキドキしながら「蔵人」への階段を降りていった。
そのころ「蔵人」は、ミラノ座の前の雑居ビルの地下にあった。
うすぐらくてパイプが剥き出しで、まるで潜水艦の中のような廊下にそって、蔵人は他の店と扉を並べていた。
階段の脇に共用のトイレがあった。
(後に私はこのトイレでゲロッパになって、汚しちまって、隣の「波」のマスターに怒られたことがある。どうもすみませんでした。)
そのトイレから近い一軒の扉の前で、K山は足をとめた。
思いきって、扉を開けた。
中からいきなり関西弁が飛び出してきた。
(V)
入って右手にカウンター、左にボックス席だけの小さなスナック。
今の蔵人のインテリアと比べて、当時のは、ちょっとハードロックな感じがあった。
いまのマスターをちょうど25年若くしたようなマスターが、氷を割っていた。
(あたりまえやちゅうねん)
扉から奥、カウンターに座って左手が美和子さんの定位置。
「おうK山ァ、ちゃんと学校行けたかあ」
変な関西弁の主は美和子さんであった。
マスターは、私たちよりほんのちょっと年上なだけなのに、えらい大人っぽい感じがした。
マスターも美和子さんも、人生経験をつみ、たくさん本を読んでいて、私たちは、二人の話しに魅せられた。
私たちは、前の晩K山が入れたホワイトのボトルを飲んだ。
このころは酒の味なんて分からなかった。
だけどその味は、たぶん、自由の味がしたことだろう。
私の目の前には、大学生活と、夢見た東京での一人暮らしがぼうようと広がっていた。
いまでも私は、階段を降りて、蔵人の扉を開けるとき、その夜のドキドキを思いだすのである。カワノ(44歳)