「蔵人考」
 


「前置き」

阪神が日本シリーズで王手をかけたようで、気分よくしています。

ただ、小生にとっての日本シリーズは、店主と同様、「おまけ」みたいなもので、いうなら、正月のほろ酔い加減で気分のいいところに、たまたま買った福袋の中を覗いたら結構なものが入ってた、てな塩梅ですわ。

さてさて、ホームページから「投稿集」を開いてみると、「私と蔵人」というテーマが組んであるのを知り、投稿されたものをすべて読んだ上で、投稿意欲を掻き立てられた次第です。

投稿するには、どうも「蔵人」を訪れた回数がいかにも少ないとは思うのですが、小生なりに思っていることがあって、投稿することにしました。

掲載の可否は、小生にとってどうでも良いことなので、適当に編集されることを含めて、店主のご判断に委ねます。

放ったらかしにされても一向にかまいませんから。


「投稿文」


大阪の高校時代の友人M氏に誘われて蔵人を訪ねたのがはじまりでした。


M氏は「高校の先輩が脱サラをしてやっている店やで」というから、どことなく出身高校の文化というか、DNAを感じて、誘いにのってみたのです。

それは、1989年(平成元年)のことでした。

当時、小生は「外で飲むこと」も「東京」も、あまり好きにはなれなかったのです。

いや、東京がどうしてもなじめず、東京の呑屋で飲むことを避けていました。

そのわけは、職場での「東京」が、「田舎者を寄せ集めた集合体」で、アーバニティ(都会性)を微塵も感じることができなかったことにあります。

これは、田舎と田舎に暮らしている人たちを軽蔑して言うのでは決してありません。

「定年後の田舎暮らし」を望むような「傲慢ちきな田舎願望」ではなく、さまざまな意味で貴重な営みの続けられてきた田舎は大好きです。

そうではなく、田舎出身で「俺は東京の大学を出て、中央で働いているのさ」という臭いをプンプンさせる輩には堪え難いものを感じてしまうのですよ。

それこそ「田舎者ではないか」と。

だから、田舎者の連中と、東京の街で飲むなんてまっぴらだという心境だったのです。

ところが、訪れてみた「蔵人」は意外な空間でした。

店主はもろ「大阪弁」でしゃべる。

「社長」の美和子さんは生まれ育ちが東京であることを直感させる。

しばらくいると、ここは蔵人流の「客としての品性」さえわきまえるならば実に自由な空間であり、その意味では、小生にとってはじめての、東京における“アーバニティ”体験だったのです。

実は、小生は因果な商売をしています。

生活上、なにがしかの困難を抱えて苦悩に喘いでいる人を支援する分野で働くことを生業にしているのです。

若い頃、ある政令市の精神衛生相談所(現在は、法令上「精神保健センター」と呼称される)のデイケアでグループワーカーのアルバイトをしていた時、九州は筑豊の炭鉱から流れてきた人たちが、利用者に大勢いました。

筑豊の炭鉱閉山に伴って太平洋ベルト地帯を「流れて」来ざるを得なかった人たちには、「根こぎ感」という独特のメンタリティーがあると指摘されてきました。

それは、生まれ育った地域とはまったく異なる生活文化や言葉を強いられて、生活者としてのアイデンティティーが解体され、自分の存在そのものが根元から引き抜かれてしまったような心性を指します。

そんな人たちと、雀卓を囲み、昼飯を共にすると、プロ野球のシーズンが始まれば必ず「(元西鉄)ライオンズ」を共通の話題にして、九州の言葉で会話することを知ったのです。

つまり、デイケアの場所を自由な「解放区」として、自分本来のメンタリティー、アイデンティティーを取り戻そうとしているのだと…

多くの人が自分の生まれ育った地域から流れ出ざるを得なかった時代に、東京という街は、都市本来の自由を万人に保障する場所だったのでしょうか?

田舎者の「勝ち組の集合体」がしのぎを削って人間を序列化する趣こそあれ、人間の自由を土台に据える街では、決してなかったと思います。

「蔵人」はそんな砂を噛むような街にあって、砂金のように波止場の憩いを提供する空間なのではないか。

店主と社長のアーバニティに支えられて成り立つ、「ちょっといい加減であること」が許される「解放区」で、ざまざな人が「多様な自分らしさ」を保つひとときではないかと思います。

  By 宗澤忠雄