オレゴン州ポートランドから愛を込めて
25年前・・・・
「蔵人」は、今の店からちょっと北西の、階段がどこまでも下に続くような、古い雑居ビルの地下に生まれました。
売れる前のタモリが、バラライカを弾いて遊んでいた「波」の隣の、今の広さの半分もない小さな店でした。( トイレは共同で、誰かがうごくときは、皆で譲り合わなければならないほどでした。)
満員の時は「波」で時間待ちしたり、そんな店ですから客同士は、皆知り合いで、和気藹々の傍ら、とんがりあって、時代を現すように喧嘩も結構ありました。
当時21歳の私は、田舎から出てきて、武蔵野の某大学の、オツムが単純に出来ていると思われていたラグビー部員で、S海上を辞めてお店を始められた松本さん、東京育ち、慶応卒の美和子さん、いかにも都会馴れしていそうなお客さんたちが眩しくてしょうがありませんでした。
勿論彼らに馬鹿にされていたことは言うまでもありません。
これはいけないと思い、失地回復のつもりで書いた全国冷やし中華連盟(覚えている人は少なくなりました)の第二回懸賞論文で、主席を取り、山下洋輔トリオのコンサートで、筒井義隆さんに表彰状をもらいました。(おっといけない、自慢でした。B型の癖ですぐに自分の話題に切り替えてしまい申し訳ありません。)
私のボトルは、ホワイトでした。
(武蔵野の地元では、レッドしか飲んでいませんでしたので、随分背伸びをしていました。)
20年前・・・・
「蔵人」は、今の所に移動していました。
「もうトイレのたびに外に今なくて済むのだなあ。」と皆で喜んだのを覚えています。
アヤメちゃん(吉澤くん)を始め、演劇関係の若者が一杯で、これまた体育会朴訥人の私とは違う世界でした。
「演劇関係の男女は、私の知らないいかがわしい世界を楽しんでいるに違いない」という強烈な確信を持ったのもこの頃です。
私は、某食品会社に入り、大阪で営業をやっていました。
スーパーの店頭で陳列をしたり、デモンストレーション販売をしたり、私生活では大阪弁の女性との会話を楽しんだりして、それなりの生活をしていました。
ある日、大阪の南の方(奈良に程近い)で、相変わらず地を這う営業を行っていました。
そこへ鼻をたらした汚い小坊主が近づいてきました。
後ろからヒステリックな若いお母さんの大声、その声が私の人生を変えたのです。
「としちゃん(確かとしちゃんだったと思います)そんなにお母さんの言うことが聞けないのなら、将来はこんな仕事しか出来なくなるわよ!!」
これまた小汚いお母さんの指し示した指の先にいたのは、背中に当社の商品名が書いてあるジャンパー姿の私であったことは、話の成り行き上誰でもわかることと思います。
即刻私は決心し、「蔵人」で知り合ったWプロダクションのH氏(ひろ坊様)に頼んで、同プロダクションのマネージャー中途採用に応募しました。
いろいろあってそれは実現せず、小生は、H氏の勧め通り異動希望を出し、事業部というところに勤務となりました。 水が合ったのでしょう、それ以降16年も食品のマーケティングと言う仕事をすることになったのです。
「蔵人」のお客様様です。 私のボトルは、変わらずホワイトでした。
記憶に間違いなければ、今の店の開店パーティーをお店でやったと思いますが、その時に、大阪から買ったばかりのテナーサックスを担いできて、メインイベンターとして演奏をしたのは私です。
15年前・・・・
正直な告白をすると、この頃以降小生は、「蔵人」と共に歩いてはいません。
折角「蔵人」のお客さんのアドバイスで東京に来ることになったのに、恩知らずにも、私は、銀座に嵌まってしまいました。
銀座の蝶たちと松本さんとを比べると、如何せん貴乃花と智の海(転職組)の対戦のようで、勝ち目がありません。
たまに行くと、松本さんがさも特等席を取ってくれていたかのように、自分の横の席を勧め、「美和子さんが言うことを聞いてくれない。店の女の子に馬鹿にされている気がする。」等と日頃の不平不満、愚痴をこぼすのです。
はっきり言って私は、店の女の子ともっと話したかったのです。仲良くなりたかったのです。
私のボトルは、年一回くらいしか行かないので、松本さんが探すのに10分以上もかかるようになり、諦めて「店のボトルの飲んでいいよ。」となっていきました。
相変わらずホワイトでした。(勿論他の店では、へネシーのXOを飲んでいました。)
10年前から・・・・
最近「蔵人」のホームページを見ていると、私の知らないいろいろな人が、「蔵人」を支えてくれているようです。 25周年の「蔵人」歴史の大半はその人々の思い出とともにあると思います。
老兵かつ不真面目な客、何をいわんやでしょう。
私の「蔵人」の思い出は、25年前からあまり変わっていません。
この頃は、それでもちょくちょく顔を出すようになりました。
銀座にも疲れました。
「おじさん達も昔は、こんなところで意気盛んだったもんだ。」と若い女の子との逢瀬の、退屈な時間稼ぎに、使わせてもらっています。
そう書きながら、昔親父(告白しますが、彼は詐欺罪でつかまりそうになったことがありますので、私の話も?ですよ。)に、大人になった記念に「軍国酒場」に連れて行ってもらい、海軍将校の服を着て、なんだか?と思いながらも、「貴様と俺とは・・・」と歌っていたのを思い出しました。
さびしくなって来たので、ここは、「蔵人」にいっぱいきている元気な人に、話を譲りましょう。
この頃になって、ボトルは、ワイルドターキーにしました。
思い出を捨てたのかって?
いやいや、いいお酒に慣れすぎて、ホワイトでは翌日頭が痛くなるんです。
私は生来、綺麗めの女の人が好きなので、頑張って綺麗な人と一緒に「蔵人」のカウンターにいることがあります。
昔の事でよかったら、お話します。声お掛けください。
( 但し、隣の女の人と佳境に入っている時は避けてください。)
松本さんと話しているときは、お気軽にどうぞ。
(追記)・・・・
失意の底で、Wプロダクションを受けた話を書きました。後日、アグネス・チャンと仕事をする機会があり、一緒に旅行したり、家に遊びに行ったりしていたのですが、彼女の旦那で元マネージャーのK氏は、小生とほぼ同時期にWプロダクションに入り、彼女の担当になったそうです。
ふと頭をよぎった「もしあの時・・」の質問に、アグネスは、すかさず「私はあなたとなら結婚しなかった。」と答えたものでした。オレゴンの川辺から、昔を偲びつつ
昔「とら」と呼ばれた男、現在「TORAJII」より