開店から移転まで
さて、事の成り行きから店をやる事になってしまったが、開店当初のお客が友人や知り合いをどんどん蔵人に連れて来てくれるので、もともと狭い店でもあったが、数ヶ月もすると平日でも満員でせっかく来てくれたお客を断るほどになっていた。
若くて血気盛んなお客が多かったし、その頃の時代状況もあって(いわゆる団塊の世代あたりがお客の中心であった。)、朝まで延々と芸術や哲学・政治の議論を戦わせるお客も多かったし、 時には僕達もその議論に加わったりもした。
( 今はもう時効だろうから書くが、時には閉店後の締め切った店内で、誰かがどこからか手に入れてきたマリファナを回し飲みした事も何度かあった。)
その頃の常連客の中心を成していたのは、僕の知り合いから広がった関西出身者、S海上の社員、美和子さんの出身大学のOB、元彼女が勤めていたF社の社員、早稲田の演劇関係者、そして新宿にあるT医科大学の学生等であった。
当時の僕達の生活はと言うと、前にも書いたように、店が終わった後「業界視察」と称して、お客達とゴールデン街や2丁目のゲイバーに飲みにいったり、ディスコに行ったりして毎日家に帰りつくのは明け方という状態だった。(僕達の部屋で仮眠を取った後そのまま会社に出勤するお客も多かった。)
当初飲み屋を長くやるつもりが無かった僕は、店の方が一段落したら大学院に進学して大学教授にでもなろうと思って、最初の頃はその為の勉強を続けていたのだが、元来意志の弱い僕が以上のような環境の中でその意思を放棄するまでにそう時間はかからなかった。
そのような状態が2年以上続いた頃美和子さんが、通り一本新宿駅よりにある10数坪ほどの店が、借り手を探しているという話しを聞きこんできた。
多くのお客が来てくれていて店が手狭になっていたこともあるが、連日満員に近い状態であるのに一向にお金が溜まらないと言う事もあって、早速僕達はその店を借りる事にした。
新しい店もコンクリートの打ちっぱなしのままであったので、一から内装を考えなくてはならなかったが、幸い知り合いの若い建築デザイナーの人で、一度自分で店舗の内装デザインをやってみたいと言う人がいたので、僕達はおおざっぱなイメージだけを伝えて後はその人に一任する事にした。(そうして出来あがったのが今の蔵人である。)
それでも店舗の賃貸契約を結んだり、什器・備品をそろえたり、内装工事に立ち会ったり、営業許可を取ったりと、やる事は沢山あった。
何しろ夜は蔵人をやりながらそれらの事をやらねばならなかったので、元来働き者の僕は美和子さんの指揮の下、連日コマネズミの様に動き回った。(その時の疲れが抜けなくて、それ以来僕は働き者で無くなってしまったのです。)
こうして僕の血の滲むような努力の結果、1978年12月の初めに蔵人は現在の場所に移転する事が出来ました。めでたし、めでたし。
店主(トシ丸)